L'Infidèle は「不実な女」が面白い
先日のBWV998と「三位一体」の考察の記事の中で、バッハのマニフィカトをの一節を紹介していたら、話が脱線してしまったので改めてその部分をここに抜き出して紹介したい。
バッハのマニフィカトBWV243の第8曲「権威ある者を座位から下し、卑しき者を高うし」のには「権威ある者」、「卑しき者」を象徴するフレーズがある。
上の「卑しき者」のフレーズの冒頭部分に続いて「権威ある者」を表わす次の部分が続く。
力強いがいかにも高慢で乱暴な印象を与える。その音型は、ヴァイスのリュートソナタ(組曲)『L'Infidèle』(不実な女) の第6曲(最終楽章)のペザンヌ(Paysanne)のそれと酷似する。ここでは、まさしく高飛車で傲慢な「不実な女」そのものを表現している。
最近風潮されている『L'Infidèle』=「異教徒」という訳は穿ちすぎであろう。ヴァイスが生まれる前の1683年のトルコを第2次ウィーン包囲を根拠にすること自体はなはだ疑問である。
メヌエットの第2小節目の短調の下降音は
いかにも妖しげに響くものの全体的にはこれといったトルコ(異教徒)の風情を見いだすことができない。後半分の上声部と低音部の応答(ディアローグ)は未練がましく言い寄る男とそれをもて遊ぶ女を表わす。
バロック音楽において、ある音型(フレーズ)で感情や情景を表現するというこうした用法は一種のお約束ごとである。バッハにも「涙」や「ため息」を表わす音型がある。歌舞伎の役者の仕種を見て通はその意味をくみ取る。同じく音楽の心得があっても無くても2声の応答は、誰しもが、それが器楽曲であっても、(オペラの)ディアローグ(対話)を連想するのである。そのデュエットは大抵は男女の恋の囁き、バッハはイエスと信者の問答といった具合。
そもそも、トルコ風を表わすにしては、この曲はフランス風の匂いが強い。その反面、アントレ(入場)-クーラント-メヌエット-サラバンド-ミュゼット-ペザンヌ といった具合に、この組曲は型破りである。佐藤豊彦氏は、「この組曲自体を女と見なしてInfidèleをかけている」というような粋な解釈をなされている。確かにフランス趣味を装いながらも(ヴァイス好みのイタリア趣味の)クーラント、サラバンドは「不実な女」に振り回される男の恨み(嘆き)節(アリア)そのものといった意味ありげな趣向は、バロック音楽の一つの傾向でもある。そこに暗喩、エピソードを読み取る必要がある。それは、(トルコ風などという突飛な物ではなく)お定まりのものでなくてはならない。
田舎舞曲であるペザンヌの前に、これまた野卑なミュゼットを配置したのも意味がある。聴衆は鄙びたフランス舞曲をたて続けに聴かされることによって、「身なりはフランス風で気取っていても中身は田舎女!」との揶揄を読みとるのである。
まとめ…この曲の藤兵衛流解釈…。
- 冒頭の堂々たるフランス序曲風のアントレが、お高くとまる女の御成りを告げる。
- その女に、ドキドキと胸をたかならした(心ときめかした)伊達者を気取る勘違い(イタリア)男が秋波を送る姿を描くクーラント。
- アリアのごとく男の悶々とした心情を吐露するサラバンド。
- 続くメヌエット…意を決した男は、最初はたどたどしくも、やがて我を忘れ、ねちねちと女に言い寄る、女は男に気を持たせるも最期はそれを軽くいなす。
- そして、ブーブーと不平をならす野暮な男は、未練がましくミュゼットを地団駄踏むがごとく踊り、がっくり肩を落とす。
- それをオホホホと勝ち誇ったようにせせら笑う悪女(田舎娘)の踊りのペザンヌで物語を終える。
いかにもありふれた話。でもそのお決まりの物語を連想して楽しむのもバロック音楽の醍醐味。
ふと自分を顧みて、プルプルと首を激しくふる藤兵衛であった。
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