クヴァンツとゼレンカそしてバッハ?
今日は以前の休日出張の代休をいただいた。残念ながらここ数日久しぶりの夏風邪で外出がままならない。土曜日の朝駆け十里強の後の不摂生(シャワー後のクラー効かせてのうたた寝)がたたったのだ。おかげでその晩楽しみにしていた(滅多にやらない)夜駆けをかねて荒川土手まで繰り出しての熊谷市の花火大会 見物も見合わせ、その翌日(昨日)のアンサンブルの練習も欠席するという体たらく。頭痛と節々の痛みと変な悪寒にさいなまれながら、ブログ用の原稿を書きためて気を紛らしているところ。
…と言い訳するのはいいわけないが…。
誤解のないように言っておくと、ゼレンカは藤兵衛の好きな作曲家の一人である。いまでこそ復権し高い評価を得ているが、バッハと同じように当時はマイナーな音楽家であった。ただしバッハはドレスデンではオルガンの巨匠として注目されていたが、ゼレンカはかの地において不遇の日々を囲っていたのは事実である。これらのことについてはいづれ機会があれば触れたいと思う。
前回の記事 の中で是非とも確認しておかなければならないことがある。1723年、プラハでの皇帝カール6世の戴冠式にゼレンカがザクセン選帝侯(強健王)に随行して現地に滞在していたのは確かである。ドレスデン楽団員の中から当地ボヘミア出身のゼレンカに白羽の矢がたったのは当然の理である。ポーランド王でもあるザクセン選帝侯が、オーストリアハブスブルク家皇帝のボヘミア王就任戴冠式に列席することについて政治的な駆け引きが渦巻いていたことは言うまでもない。当地で名声を高めていたゼレンカの凱旋によって注目をひこうとしたのはまちがいない。事実、ゼレンカはこの機会のために
- 協奏曲ト長調 ZWV186
- 序曲「ヒポコンドリア」イ長調 ZWV187
- 組曲ヘ長調 ZWV188
- シンフォニアイ短調 ZWV189
…といった主要器楽曲を準備(作曲)して当地で演奏し大好評を得ている。この時がゼレンカの生涯で一番晴れやかな舞台であったといえる。逆に言えばドレスデンの彼の地位はあくまでもコントラバス奏者でありここにあげた器楽曲以外ではプラハ訪問以前に書かれたカプリッチョ4曲(その他訪問後に書かれた1曲も存在)や有名な6つのトリオソナタなどほんの数点しか伝わっていない。日常のドレスデン宮廷での音楽活動においてクヴァンツのフルート・トラヴェルソの師ビュッファルダンなどの例と比べると決して作品数は少なくないが、楽長ハイニヘェンやヴァイオリンのピゼンデルとは比べ物にならないのは確かである。
また宮廷団の楽士間に派閥争いが存在したことは疑う余地もない。ヴェラチーニなどはその犠牲者ともいえる(後日に紹介)。強健王の政治的思惑とその派閥関係がプラハ行の随行要員選抜に影を落したことは十分考えられる。自分が確かめた数点の資料には強健王は(プラハに)楽団を随行させたとあるが残念ながらそのメンバーを確認できない。憶測で言うならば、よそ者ドレスデン楽団員が大挙して他人の家(プラハ)に土足で上がりこみ威勢を誇示するよりも、在地出身の英雄ゼレンカと在地宮廷や貴族の楽団に華をもたせることによって得る絶大な政治的配慮(効果)を強健王は期待したのであろう。意味深長な内容のゼレンカの世俗歌劇「オリーブの木の下での和解:聖ヴァーツラフの音楽劇 ZWV175」はまさしく当地の貴族たちの要請によって作曲上演されたのである。まさしくポーランド王としてボヘミアの貴族たちに寛容さを示すザクセン選帝侯としての政治的デモンストレーションにゼレンカは利用されたことになる。事実それ以降の強健王のゼレンカに対する利用価値はハイニヘェンの療病における楽長代行とお固い教会音楽作曲家以外にはなかったのである。そのハイニヘェンが随行要員の中に名前を連ねていたかどうかは一番興味のあるところだが随行メンバーはゼレンカを中心に彼の取り巻きといった限られた顔ぶれであったのだろう。クヴァンツの自伝にはその時の強健王の列席と宮廷楽団員の随行の件については一言もふれていない。そして選にもれたクヴァンツがヴァイスらと伴って個人的にオペラを聴きにいって飛び入りでオーケストラに参加しゼレンカについて一言も触れていない不可思議であてつけがましい自伝の記述はそのような裏事情があったからなのであろう。
ちなみに今までのクヴァンツについての記述については
クヴァンツの自伝の邦訳『わが生涯』(井本晌二訳シンフォニア刊)に依っている。
『フルート奏法試論』の出版2年後の1754年に書き上げられ、それまでの彼の音楽武者修行や音楽観、交流した音楽家など興味深い記事(裏話)が伝えられている。1723年の一件はまさしく裏話であり関連の記事を書くきっかけとなったのである。ちなみこの自伝において、ゼレンカのことは対位法を習ったということしか触れられていない。また、巷でささやかれている自身と大王にまつわる自慢話は…(すでに鬼籍に入った)大バッハと息子(ポツダムでの同僚)エマヌエルの名前とともに…見いだせなかった。い。
今回、ゼレンカの記事については、「Hipocondrie」 というゼレンカ紹介のHPを参考にさせていただいたので感謝の意を含めて紹介いたしたい。
クヴァンツという時の寵児の視点からみるとバッハもゼレンカもそんなものかと思い知らされた藤兵衛であった。努力家クヴァンツについては改めて書くこともあろう。
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