カテゴリー「音楽」の15件の記事

秋…人恋しガンバる

気がついたらすっかり秋。
定期演奏会も紹介する暇もなく終わってしまった。
遅まきながら、愛器奥さん…注:奥清秀匠制作バロックリュート…でヴァイスのパルティータニ短調をお披露目。かねてからの試案を決行すべくテーブル持参でステージに登場。出だしのファンタジ~たじたじ~ながらも自分なり手応えあった。
う~ん、長年アンサンブっていたフルートのメンバーが、今年辞意を表明して会を脱退。昨年の「ペルシャ」の件でここでぐちったの原因ならば猛省…。
ゆえに燃えかかっていたガンバの通奏低音の精進が頓挫.し、猛暑にかこつけて一月以上ご無沙汰…。

涼しくなったここ数日ガンバ三昧の藤兵衛である。

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梅雨のライブ

 梅雨はいやだ。ここ一週間ほど自転車に乗れない。先日自転車通勤の帰宅時に雷雨にたたられてから朝は晴れていても天気予報で夕方に傘マークをみつけると足がすくむ。久々のチャンスもパンクで出鼻をくじかれ、休日のいつもの出番の早朝に雨に祟られる。

  そんな悶々とした気分を洗い流しに、昨日の夕刻熊谷市駅前のバー「すごもり」にでかけた。目的は岡沢道彦さんのリュートライブ。
 今回は、埼玉県出身の若手ギタリストYukinoさんが前座で演奏。P1020937

 

写真はライブ終了後、Yukinoさんの師匠の熊谷市でギター教室を開いている長谷川照夫先生。先生は私の高校時代からのお付き合い。
 Yukinoさんはバルセロナに留学して腕をみがいてラテン系の曲が得意。性格もラテン系?ながら披露されたラウロ、ブローウェルやバーデン・パウエルは正確なテキクニックながらもかわいらしさを醸しだしている。これからのご活躍期待しております。Kukinoさんのブログはこちら→

 

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 岡沢さんの演奏。毎年この時期、横浜からここ熊谷まで足を運んで演奏を披露していただいている。恒例のリュートオリジナル曲無しのオリジナルな演奏…。

ハイドンのバリトンデュオ、クープランのコンセールからの編曲というアグレッシブな曲目。これまたオリジナルな調弦システムとはいえリュートの音色でこれらの曲を味わえるとは至福の至り…。極めつけはバッハのシャコンヌ!冒頭主題の緊張感と紡ぎだされる変奏の妙…。ライブならではの緊張感に酔ってしまったが…

You Tubeに岡沢さん自身が撮影された映像があります。→,Part1  Part2

何杯お代わりしたかわからないバーボンには酔わなかった藤兵衛であった

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ヴァイラウフのプレリュードは贋作?

ピアンカとバルキのつながりから、あることに気がついた。

以前、このブログで、バッハの身近で彼のリュート作品に大きく関わったヴァイラウフ(Johann Christian Weyrauch 1694~1771)について述べたことがある。バッハのリュート作品のパルティータ(ファンタジア)ハ短調BWV997とフーガト短調BWV1000の2曲をタブラチュアに書き直したリュート愛好家として知られ、作品も残しているらしいが、その実態は知られていない。ところが、YouTubeに、そのヴァイラウフ作曲のプレリュードがアップされていることを紹介した

改めてその動画を紹介する。

  あまりの美しさと意外性に衝撃を受け、その曲の正体を知りたく色々調べても、杳としてその実態をつかめないでいた。しばらく忘れていたが、最近久しぶりに覗いたところ、アップされていたコメントに唖然とした。

"The prelude is NOT by Weyrauch, but by Michele Barchi. Please, correct" (このプレリュードの作曲者はヴァイラウフでなくミケーレ・バルキ氏なので訂正よろしく…)

う~ん…。

  このコメンテーター「bersa888」氏 のチャンネルをたどってみて納得する。彼は G. Bersanetti なる架空のバロック音楽家の名前で自ら作曲したバロック音楽風の曲をYou Tubeにアップしているのである。そこにBersanetti作曲のチェンバロ曲を演奏するバルキ氏の動画がいくつかアップされているではないか!楽譜もダウンロードできる…。

しかもバロック音楽の手法様式を用いて作曲した曲を紹介するVox Saeculorum」なるHPも紹介されている。バルキ氏は参加していないが、交遊関係からしてこのような創作活動に携わっている可能性は高い。

彼が指摘する通り、このプレリュードはピアンカがヴァルキの創作した曲をヴァイラウフの名前を附して演奏したものであろう。

こうした偽作は今に始まったことではない。

  カッチーニのアヴェマリア(実はウラディーミル・ヴァヴィロフの作曲)、アルビノーニのアダージョ(実はジャゾットの全くの創作)、ギター曲で有名なヴァイスの組曲イ短調・同ニ長調・バレット・前奏曲(実はセゴヴィアに請われたポンセの作曲)など枚挙にいとまない。

多くの善男善女を惑わし、専門家さえ手玉にとってきた。 無邪気に褒めたたえたコメントを読むと胸が痛む。

こうした行為は、ポンセのように真相が暴かれかえって作曲家の力量を称える場合もあるが、名もない作曲家の場合、自作を世に問う一つの手段という好意的な見方はされず、その多くは愛好家の激しい誹謗を受けることになる。

このVox Saeculorum」を覗いてみるとかつてリュート界を炎上させた有名な事件の当事者が名前を連ねている。これは、その典型的な例であろう。

毎日が4月1日ではいかんぜよと思う藤兵衛であった。

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ピアンカとバルキ

ルカ ピアンカ(Luca Pianca)

  彼は、スイスに生まれ、古楽の大御所アーノンクールに師事しWCA(ウィーン・コンツェント・ムジクス)にも参加し、1985年にミラノにてジョヴァンニ・アントニーニとともにイル・ジャルディーノ (Il Giardino Armonico「調和の庭」の意)を結成した古楽の精鋭といえる存在である。

このイル・ジャルディーノの伝説的な録音がこれ

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1993年に録音されたヴィヴァルディの「四季」(前列右り3番目がピアンカ)
 激しく大胆な表現と常識(イ・ムジチに代表されるオーソドックスな演奏)をくつがえす斬新な解釈で古楽界に新風を巻き起こした。鮮明なリズム音色の対比、大胆な楽器奏法が散りばめられた演奏の中でピアンカのテオルボによる通奏低音がこれまた異才(彩)を放っている。

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また、この録音に先立ってヴィヴァルディのリュート及びマンドリンのための協奏曲集も行っている。自らアーチリュートを用いソロを演じている。もっとも有名なニ長調の協奏曲RV93では通奏低音は先に紹介したガンバ奏者ギエルミの兄弟と思われるロレンツォがチェンバロを担当している。こうした縁が先のCDの競演となったのかも…。

また、ピアンカは、バッハのリュート曲を録音している。
バッハ没後250周年と西暦2000年を記念して発売されたバッハCD全集の中に収録されている。(アーノンクールを中心としたカンタータ全集を含む)

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以下曲目~同全集解説より引用
第121巻
 組曲ト短調 BWV995(リュートのための)
 組曲ホ短調 BWV996(ラウテンヴェルクのための)
 組曲ハ短調 BWV996(ラウテンヴェルク[Fuga,Double]&
                     リュート[Prelude,Sarabande,Gigue]ための)

第122巻
 プレリュード、フーガとアレグロ変ホ長調 BWV998(チェンバロのための)
 プレリュード ハ短調 BWB999 (リュートのための)
 フーガト短調 BWV1000(リュートのための)
  組曲ホ長調 BWV1006a(リュートのための)

  以上をご覧いただくとお判りの様にピアンカ一人による録音ではない。ピアンカはおそらく単弦仕様のアーチリュートを使用しているのも一興だが、いくつかの曲をイタリアのチェンバロ奏者のミケーレ バルキ(Michele Barchi)が担当している。
  BWV996は最も鍵盤音楽に近い構造をもっておりこの選択は妥当であり、バルキ自身がに復原制作に関わったバッハが考案したとされるガット弦を張ってリュートの音を発する鍵盤楽器「ララウテンヴェルク」(E.Lorenzoni, Corvione di Gambara 1998, after Z.Hidebrandt and J.Chr.Fleischer)を用いており貴重な録音でもある。「リュートまたはチェンバロのため」とバッハ自身による指定のBWV998も選択の一つとして納得できる。演奏も律儀にラウテンベェルクではなくチェンバロを使用している。
  面白いのはBWV997であろう。ヴァイラウフがタブラチュア化したプレリュード、サラバンド、ジーグをピアンカのリュートで演奏し、それに含まれないフーガと(ジーグの)ドゥーブルをラウテンヴェルクと弾き分けている。
  しかし、実際には、フーガの一声部をリュートが部分的に受け持ち、ドゥーブルもリュートのジーグの前半、後半の繰り返し部分をラウテンヴェルクによるドゥーブルを差し挟む形で演奏されてピアンカとバルキのアンサンブルの妙を見せる。

そこで改めてある疑問の解決の糸口にたどり着くことができた。

  仕事に追われ、4月になったこと(明日誕生日!)に今頃気がついた藤兵衛であった。

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定演終わる。指のつりまくり

今年の定演が一昨日終わった。

 今回は、独奏はバロックリュートとヴィオラ・ダ・ガンバそれぞれ一曲(一楽章)にしぼったこともあって、練習もここ数年来うちこめた。特に本番前の一週間は気合が入り、夜はふと気づくと近所に迷惑になりそうな時間を過ぎることが続いた。弦の張替えはゆとりをもって早く手を付けたが、フレットの張替えのタイミングを逸してしまい、ガンバは2日前の深夜に決行する羽目となった。

 リュートとは違うダブルフレットとネットの形状故、どうしても緩めとなってしまう。両端(ネック側と緒止め側)のフレットはどうしてもネックの含み具合の関係で難しい。緒止め(テールピース)側は思い切って3フレット上で結んでみた。定位置までずり下げるのに両手の指が悲鳴をあげる。ウ~!両手の指が思い切りつった。

 思い返せばその伏線があったのだ。

 その朝、自転車通勤で初めてのパンク。舗装道路(熊谷市の道路は最悪。ガス、水道工事の継ぎ接ぎだらけがやたら多い)の陥没にはまってしまい、瞬間で「あ~あ、やったな~」 とチューブの損傷を感じる。間もなく走行不能になるも職場の近くだったので、転がして程なくたどりつけた。

 始業までタップリ時間があるので、携帯しているスペアチューブと交換作業。 初めての700Cの細身のチューブ交換に四苦八苦。 特に最期のタイヤのリムのはめ込みに悪戦苦闘。結局新品のチューブを潰し、元のチューブの補修と相成って、悪戦苦闘の第2ラウンド。第3ラウンドで何とかタイヤをはめ込んでみたものの。第4ラウンドは携帯ポンプと取っ組みあい。噂にはきいていたが高圧を出すのが如何に労力を要するかを体感する。始業前に何とか間に合うが、慣れない作業による酷使のため指が思い切りつって しまったのだ!

 案の定、痛恨の本番。

 ヴィオラ・ダ・ガンバのテレマンのヴィヴァーチェの(一夜前必死で練習した)「C」の部分

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で右指がつる!弓を落とさなかったのは奇蹟。何とか踏ん張って最期まで弾きとおせた。リュートだったらお手上げだったであろう。

 テレマンのリコーダーソナタの通奏低音は無事にクリアーと思いきや、全体合奏の最期でうけもったリコーダー(パーカッションとの持ちかえ)ではダ・カーポで左指が悲鳴をあげた。これまた楽器を落とさずすんだが、親指がコントロールできずオクターブ音がすっかり飛んでしまった。

打ち上げでは、メンバーと楽しく盛り上がり意識は飛ばずに無事に帰宅するも、翌日(昨日)は二日酔いで苦しむ。

あ~あ舞台に穴があったら飛び込んでしまいたい藤兵衛であった。

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『忠実な楽長(音楽の師)』~定演の解説

 今週の土曜日の定期演奏会の自分の独奏演奏用の解説がやっと出来上がった。数年前からプログラムとは別刷で自前で用意している。

 その内容を、定演を前に紹介いたしたい。(実際はA3見開きのリーフレット。レイアウトその他実際のものとは一部異なる)

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古楽器の世界     
    テレマン『忠実な楽長(音楽の師)』解説  

 ゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann 1681-1767)

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  ドイツでバッハ(1685-1750)と同じ時代に活躍した後期バロック音楽の作曲家である。バッハよりも5歳年長で22年ほど長く人生を送っている。12歳で既にオペラを作曲しており、単純に考えても彼はバッハよりも多くの作品を残している。協奏曲・管弦楽曲200数十曲、室内楽曲200曲余、オペラ20数曲、受難曲46曲、教会カンタータは実1000曲を下らない。ちなみにバッハの作品番号は1100台に留まる。

 ところが、バッハに比べその全容が整理出版されておらず、これいった伝記も見かけない。バッハの深い精神性や緻密な構造と比較され蔑ろにされてきた感は否めないが、当時は遥にバッハを凌ぐ名声をテレマンは得ていた。38歳でライプチヒのトーマス教会のカントルに就任し、そこで教会音楽家と学校教師として生涯を送り、保守的な市当局や学校、教会との絶え間ない軋轢なかで創作を行ったバッハに対し、テレマンはまったく対照的な自由な創作活動の場を得た。

 テレマンはバッハと同様宮廷や教会の楽長を経験したのち、31歳で就任した自由都市フランクフルト(アム・マイン)の教会楽長を足掛かりに、40歳には自由ハンザ都市ハンブルクに移り住み、46年間に渡り都市音楽監督と教会カントールを勤めあげている。自由都市と いう環境の中で、裕福な市民や周辺の王侯貴族を相手にのびのびと作曲をすることをテレマンは許されたのである。ライプチヒ市当局が、当初はライプチヒ大学で学んだこともあるテレマンをカントルとして呼ぼうとしたが断られ、しかたなく二流のバッハで我慢したという経緯は何とも皮肉なことである。
 テレマンは、大衆受けをねらった軽い内容作品ばかりでなく、『ターフェル・ムジーク(食卓の音楽)』や 『四重奏集』などの創意工夫にあふれ時代を切り開く作品や、『ブロッケス受難曲』などの深い表現に満ちた傑作も数多く残している。

   そんな彼が、音楽好きな市民向けに彼が企画したのがこの『忠実な楽長(音楽の師)』なる様々な楽器に(声楽も含む)による楽譜集の出版である。1728年より25回(レッスン/章程)に渡り隔週で、自作の新作を中心に他の音楽家の作品などを4ページのリーフレットで紹介している。事実上、世界初の定期的な音楽誌出版といえる画期的なものである。

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第1章程(レッスン)の表紙

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同第1章程の冒頭のFlauto dolce(リコーダー)ソナタ冒頭

 その内容はチェンバロ独奏やリコーダー、フルート、ヴァイオリンのソロソナタやデュオをはじめオペラのアリアなど家庭で手軽に楽しめる構成の曲が中心である。彼がいかに商売上手であったかは、多楽章のソナタを細切れにして、続きはまた次号でというスタイルを取っていたことからも伺える。手軽で心地よい素人受けする作品や、公演され話題を呼んだオペラ※のアリアの魅力に誘われた読者(愛好家)は、つい続刊を買ってしまわざるをえなくなるのである。その一方、高度なテクニックを要する難しい曲や、リュートとかヴィオラ・ダ・ガンバなどの珍しいマイナーな楽器のための作品、謎解き(展開)を要するカノンをさりげなく散りばめ、フーガの主題だけ用意し後はおまかせ…と、マニア(通)の心もくすぐる技も心得ている。

 バッハやゼレンカといった対位法の大家、当世一流のドレスデン宮廷で活躍するヴァイオリン、リュートの名手であるピゼンデルとヴァイスの作品などがその演出に花を添える。彼らは、音楽を愛する人々のために無償で曲を提供して欲しいというテレマンの要請に協力した(まんまとおだてに乗った)のである。
     ※注:おそらくテレマン作曲の複数のオペラから抜粋されているが原曲(全容)はどれも伝わっていない。
           
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古楽器の世界  曲目紹介 テレマン『忠実な楽長(音楽の師)』より

1. S.L.ヴァイス作曲   リュートのためのプレス

   ヴィオラ・ダ・ガンバやリュートは、テレマンやバッハの頃の頃に最後の時代を迎えている。それでも、ヴァイスやバロン、ファルケンハーゲンといった名人が宮廷などで活躍し、王侯貴族や、富裕な市民の中でもリュートを嗜む人々が少なからずいた。例をあげれば、フリードリッヒ大王の姉でヴァイロイトに嫁いだヴィルヘルミーネ(Wilhelmine 1709-1758)や、バッハのカンタータ等の台本を書いたクリスティアーネ・マリーア・フォン・ツィーグラー女史や文人ゴトシェートの夫人ルイーゼなど教養ある女性のリュート愛好 家も見られる。バッハ自身もリュートのためにいくつかの作品を残しており、自宅を訪問したヴァイスとのリュートと競演を物語る作品BWV1025(ヴァイスのリュート曲をチェンバロに置換え、バッハがヴァイオリン  のパートを新たに付けている)も残している。しかし、彼らの次の世代でリュートは姿を消していく。
   テレマン自身のリュートの作品は現在知られていないが、『忠実な楽長』の第12章程にはそのヴァイスの単独の作品、そして第13~16章に渡ってバロンの組曲が紹介されている。いずれも、タブラチュア譜で掲載されており、愛好家以外は解読不能な専門的なものである。(下はその冒頭部分)              

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 比較的簡素なバロンの作品に比べて、かなりのテクニックを要したこの作品は、ヴァイスの名人芸を自分の手で味わえ、さぞかしマニアの目を惹きつけたことであろう。
   もともとは、ドレスデンの手稿譜に残る ~アルマンド-クーラント-ブーレ-サラバンド-プレスト~の舞曲で構成されたソナタ(組曲)の最終楽章である。(下はその冒頭部分)

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 おそらくはテレマンのリクエストに応じてヴァイスが厳選して送ったものであろう。低音部もヴァイスの作品の中では目まぐるしく動き、ギャサラントな様式に一層の華やかを添えている。また、バッハが随所で使った「涙のモチーフ」と呼ばれる滴り落ちるような音型と、8分音譜の持続低音上で奏でられる長短短の歯切れ良いフレーズの対比が印象的である。

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バッハ『マタイ受難曲』 第65曲アリア「我が心清くあれ」

 使用楽器:Brian Cohen 1975 London 13コースバロックリュート(スワンネック/ジャーマンテオルボ型Hoffmannモデル)

2. テレマン作曲 無伴奏ヴィオラ・ダ・ガンバのためのヴィヴァーチェ

 チェロと形は似ているが、音も小さく、弓のもち方や、弦の数、指板にはられたフレットといった昔から の伝統を色濃く残すヴィオラ・ダ・ガンバも消えつつある楽器ではあった。しかし、バッハもテレマンもこの楽器のために作品を残しており、愛好家も少なからずいたようだ。バッハの息子のC.F.エマヌエルやバッハとケーテン宮廷時代同僚であったこの楽器の名人アーベルの息子カール・フリードリヒが最期の時代 を飾る傑作を残している。

 このVivaceは、第15から16章程に渡って掲載されたテレマン自身による「チェンバロ無しの(無伴奏)ヴィオラ・ダ・ガンバのためのソナタ」の最終楽章である。全体はAndante-Vivace-Recitativo-Arioso-Vivaceで構成されており、重音奏法やアルペジォなどのテクニックばかりでなく、RecitativoとAriosoといった語り歌うような人間の声に近いヴィオラ・ダ・ガンバの特性を意識して作曲されている。この終楽章は、3拍子のパスピエあるいは軽快なメヌエットで全体の中で一番馴染みやすい曲である。

使用楽器:Karl Roy 1966 Mittenwald 7弦バス・ヴィオラ・ダ・ガンバ(Bertranモデル)
                                             
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以上、本日やっと形ができた。

他に、ヴィオラ・ダ・ガンバで以前紹介したテレマンのリコーダーソナタの通奏低音、メンバー全員(フルート、オーボエ、ギター、尺八!、エレキベース、ピアノ/チェンバロ)という珍妙なアンサンブル)によるヴィヴァルディ「四季」冬の第2・第3楽章、そしてリコーダーやパーカッション(フォルクローレのボンゴ?)で参加する。あとは練習あるのみ…。

   ストレス解消に太鼓にはまりそうな藤兵衛であった。

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シーボルトと音楽

  シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold,1796-1866)は、

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(左:長崎県立長崎図書館蔵  右:国立国会図書館蔵)

東洋に憧れ1823年長崎出島のオランダ商館医として来日する。日本史でお馴染みの有名人。

  滞在中、日本の文化や動植物を研究し、医者としての能力が買われて出島を出ての診療活動が許され、さらに鳴滝塾にて高野長英をはじめとする門下生に西洋医学を教授するなど日蘭交流に貢献している。また、楠本滝と結婚し娘イネが1827年に生まれている。このイネ(司馬遼太郎の『花神』に重要人物として登場する。1977年NHK大河ドラマ化)が村田蔵六に師事し 日本初の女医として活躍する※。1828年、一時帰国する際、国外持ち出しが禁じられている日本地図を所持していることが発覚し国外追放処分を受けた(シーボルト事件)。

  ※注:ちなみに初の正式の資格をもった女医は、我が勤務地埼玉県熊谷市(旧妻沼町)出身の荻野吟子(1851-1913)である。

  彼が、どれだけ日本を愛していたかは、彼の記録やヨーロッパに持ち帰った膨大な収集品からも判る。事実、帰国後、生まれた息子を連れて再来日し、死去するまでヨーロッパで日本文化の紹介に尽力している。

   シーボルト愛用?のお滝とイネの肖像入りの煙草入れが残っているが(下の写真※右は成人後のイネ)。 残念ながら両人との関係は冷えきってしまったようだそれでも、色々な差別偏見にあいながらも父と同じ医の道を歩んだイネの姿は健気だ。彼女と荻野吟子がもし出会っていればどんなに心強かったことであろう。意外にも両者の関係を述べた論文は少ないような気がする。 

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  近年、シーボルトと音楽について色々紹介されるようになってきた。最近日本に現存するシーボルトのピアノの修復が度重なる困難を経て完成し演奏も披露されている。ネットなどで「日本最古のピアノ」と紹介されているが、明らかに彼が日本に持ち込んだものである。

  手元にある2001年8月21日の毎日新聞の「東京芸大で楽譜を発見 日本初のピアノ曲」という記事(執筆:梅津時比古氏)の切り抜きに、彼が離日する際に交友のあった山口県の商家熊谷(くまや)五右衛門に署名を添えて贈呈したものとある。

 今ピアノというと重く大きなあの姿を思い浮かべ、え~っと思うかもしれないが、実物の写真を見ると納得する。参考:財団法人 熊谷美術館

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英国製のご覧の通りの大きさのターフェルピアノ(卓状ピアノ)である。それでも結構重そうだが…ぜひ実物に触れてみたい。

 「なぜ日本にピアノを持ち込んだのか?」と新聞の記事では「ヨーロッパの最新技術を紹介する説もある。シーボルト著の「江戸参府紀行」のなかに「中津藩の老公を音楽や歌やダンスでもてなし、楽しく過ごした」と言う記述があり、自らの楽しみや社交のためだったと見られる。TV番組の企画でこのピアノを弾いた羽田健太郎さんは、日本の音楽をピアノで弾いて楽譜に再現し、ヨーロッパに伝える目的だったろうという説を立てる。」

 と一般読者のために周りくどく説明をされているが、楽器を嗜むアマチュアにとって答えは以下の一言につきる。先の引用文の要約にもなると思うが…

     「自分が楽しむため」!

 そもそも、彼はバイエルン州ヴュルツブルク (Wurzburg)の名門貴族に生まれたドイツ人である。当時の良家の子女の嗜みとして同地出身の音楽家ヨーゼフ・キュフナー(Joseph Kuffner,1776-1856)…ギターの易しい小品も残している~ホマドリームの菅原潤さんの記事が詳しいからピアノの手ほどきを受けたらしい。

 新聞記事で紹介されていた「シーボルトのピアノ曲」の楽譜…。

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 どうやら、シーボルトが日本で耳にした旋律を音符におこして持ち帰り、帰国後ピアノ曲(歌曲)に編曲され、1836年にオランダのライデンで7曲の「日本のメロディー」として初版が出版されたものである。芸大で発見されたものは1784年にウィーンで再版されたものをシーボルトの息子が来日した時に持ち込んだものいうことだ。「坊主にかっぽれ、あの子見たさにヤレコレ」云々とある歌詞(かっぽれ)から全くかけ離れた西洋的なものになっている。私は、シーボルトの了解をとって、一般大衆に馴染みやすいよう興業的に誰か(キュフナー?)が手を加えたものであると推論する。事実、「ワシントン(議会博物館)のものだけ表紙にキュフナー編曲と印刷されている。」と新聞記事は紹介している。しかし、それでも「(シーボルトが)作曲するにあたってキュフナーが手助けした」と懐疑的である。果たしてそうであろうか?

 まず、シーボルトの他の音楽作品や音楽家としての業績(記録)が知られていないというだけではなく、真摯な研究者であるシーボルトが日本の音楽を歪めて伝える訳がないと私自身は思っている。西洋の価値観(視点)で東洋の文化を改編書き直すのは冒瀆行為に他ならない。このことはシーボルトの本意ではあるまい。もっとも日本の曲をそのまま単旋律で出版しても買うのは余程のマニアックな人々であろう。だからこそ、エキゾチックな雰囲気だけを求める大衆向けに出版社がキュフナーに全てを委ねたのだろう。それが事実ならキュフナー編曲というよりもキュフナー作曲といっても良いのではないかしらん。

 最近、明治大学法学部加藤徹教授のHPで興味深い資料を見つけた。(教授はアコーディオンの愛好家でもあられる)

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 シーボルトが、日本滞在中、月琴の中国(明清楽)の小品「 Ein chinesisches Liedchen auf die Gekkin」を五線譜におこした直筆譜の一部である。

 音価があわない部分もあるが細かいリズムなどを正確に聞き取ろうとしていたことがうかがえる貴重な資料である。まさしく研究者としての面目躍如と言ったところか…。むしろ、先に紹介した新聞の羽田氏の説は、ピアノ無しには採譜できないとしたら音楽家としてのシーボルトの能力の低さを証明することになるのだが…。

  日本の音楽採集を「訪日プロジェクト」のミッションの一つとパトロン(阿蘭陀政府)に言い包めて大型の楽器の運搬費を肩代わりさせることをもくろんだのなら、シーボルト=スパイ説も頷けよう。とにかく、したたか(笑い)

 次に、昔、仕事で長崎に出張し、訪れた出島で手に入れたイラストマップ「シーボルト1826江戸に行く」(シーボルト記念館板(版?))の「出島に帰る編」に興味深いシーンがある。彼の『江戸参府紀行』の記録から松尾龍之介さんが書きおこしたものだが…。とにかく当時の様子がありありと浮かび見ていて楽しい。

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 大坂では「歌舞伎を見て感動する。帰国してからオペラにしようと試みた。」の場面もあるが、オペラ創作に挑んだのが自分自身なのか、脚本家や作曲家に委嘱したのかは読みとれない。これこそキュフナーに相談したことは充分推測できるが…オペラを生業としていないキュフナーがどう応えたことやら…。

 この「シーボルト事件の発端を物語る場面」、「お滝さんへの愛情を物語る場面」もさることながら「ギターやピアノの伴奏」で島津重豪とのダンスの場面がなんといっても微笑ましい。

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 しまづしげひで1745-1833…あの有名な斉彬の曾祖父。名君ではあるが異常な程の阿蘭陀びいきで有名。シーボルトは80歳余りの彼をどう見ても60代にしか見えないと評している。そうでなければダンスはできまい。先の新聞記事では「中津藩の老公を音楽や歌やダンスでもてなし、楽しく過ごした」となっているが、その時の中津藩の当主は、1786年、中津藩奥平家の当主が急逝したことにより同家の末期養子として跡を継いだ島津重豪の次男の奥平昌高(1741-1755)である。彼は、直前に江戸で父にシーボルトに紹介されており、この日も父と同席していたと思われ錯綜したのであろう。この昌高も以後シーボルトと交友を重ね、実父に劣らない蘭癖となっていくのである。また、重豪は曾孫の幼い斉彬をシーボルトに引き合わせている。この重豪の「蘭癖」無くして、のちに明治維新のキーパーソンの一人となった島津斉彬(…さらに宮崎あおい演ずる篤姫も)も存在しなかったのである。

 その時のピアノは長崎から運んだ彼のピアノなのだろうか?江戸の長崎屋にもピアノがあったのだろうか?ギターはいわゆる19世紀ギターなのか?前段階の5弦複弦ギターなのか?製作された国や時期は?…などと興味はつきない。できれば本格的にシーボルトの史料(資料)や論文をいろいろあたってみたいのだが…時間がない…これだけでも書けたのが奇蹟だ。

 シーボルトは決闘好きと聞いて結構驚いた藤兵衛であった。

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「不実な女」と「めぐり逢う朝」?

 相変わらず忙しい。ブログを書く気力も失せていた。

 10数年前、転勤後の無理がたたり、体調を崩し手術し一ヶ月ほど入院生活をするという苦い経験をしている。(すぐに全快し無事に復帰)

 その折り、ある同僚から「忙中閑あり」というアドバイスをいただいた。ところがその彼も、転勤後、体調を崩したという笑えない顛末…宮仕えの身の厳しさを知る。

 しかし、その言葉は今も座右の銘となっている。こういう時こそゆとりをつくらねばと…。

 というわけで、先日の休日、戸棚の肥やしになりかけている楽譜を取り出し何か面白い曲がないかと発掘作業にひねもす没頭した。

…発見の一つ。

 17世紀後半フランスで活躍したヴィオール(ヴィオラ・ダ・ガンバ)の巨匠、サント-コロンブ氏(Monsieur de Sainte-Colombe)の"Concerts à deux violes esgales(2台のヴィオールのための合奏曲)"の最後から2番目の第66曲ハ短調の表題に目が留まった。

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 "L' infidelle"すなわちヴァイスの有名なリュートソナタイ短調と同一の表題である。

    残念なことに数小節が欠落しているので演奏される機会も少ない。…しかも、作曲者の知名度・音楽の地味さがそれに拍車をかける。

"L' infidelle"は一般に「不実な女」と訳されている。

 「異教徒(不信心者)」と意訳する例もあるが、この発見で、やはり前者の訳の方がより自然であるだろうと納得した。

 サント-コロンブといえば、映画『めぐり逢う朝』(…DVDを購入し何度も観た)での「亡き夫人の面影にひたる世捨て人」というイメージが強い。そこからの連想でなく、こういった女性定冠詞(la)をつけて「~な女」と表する副題は、その映画に出てくる彼の弟子のマラン・マレ(Marin Marais 1656-1728)や、彼の後輩であるクラブサンの名手フランソワ・クープラン(François Couperin 1668-1733)などに頻出する。フランス宮廷音楽の洒落た伝統である。フランス器楽音楽の様式はドイツに伝わり、バロック組曲として完成されていく訳だが、「よき家庭人バッハ」をはじめとする生真面目なドイツ人気質にはこの副題に関する伝統はあまりお口にあわなかったようだが、時折伊達者が思い出したようにフランス流を気取っている。ヴァイスの用例もその一例なのであろうと軽く考えてしまう。

 マレやクープランに"L' infidelle"の表題をもった曲はなかったような気がするが、面白そうなので確かめてみようと思う。

 ちょっとした気晴らしを見いだした藤兵衛であった。

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続シェンクとヴァイス~つながり

 先日、シェンクの『シャコンヌ』とバッハの『ゴルトベルク変奏曲』の低音主題(旋律)が同一であることや「シェンクとヴァイスの接点」についても触れてみた。

 今回は、シェンクとヴァイスの関係を再び先の低音主題から眺めてみたい。ヴァイスのシャコンヌやパッサカリアを聴くと何となくとと同じ香りがすると感じていた。そこで、改めてヴァイスのこれらの曲を調べてみた。

 何と、あのシェンクの『シャコンヌ』の低音主題がヴァイスの『シャコンヌ』にも用いられていたのである!

Weiss12_cia_fac_2

S.L..Weiss  Sonata12 A-dur(S-C7)ロンドン手稿譜より第6曲『シャコンヌ』冒頭 

この曲はAllemande-Courante-Bourree-Sarabande-Menuet-Ciaconna-Gigue の7曲からなるイ長調のソナタ(組曲)であり、ドレスデン手稿譜にも同一曲が存在する。その第6曲の『シャコンヌ』の冒頭を五線譜で次に示す。

Weiss12_cia_them

その主題の低音旋律をオクターブ挙げて移調してシェンクの『シャコンヌ』のそれと比較してみよう。

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   ヴァイスの『シャコンヌ』主題の低音旋律

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   シェンクの『シャコンヌ』の低音旋律

 ヴァイスの方は経過音により装飾されているが、マーカーを付した音に着目すればシェンクのものと同一な音型であることがわかる。

さらに、このヴァイスの『シャコンヌ』の第6変奏になると輪郭が明確になる。

Weiss12_cia_ver6

     矢印以下がヴァイスの『シャコンヌ』の第6変奏

 同じく低音部を移調して抜き出して示す。

Weiss12_cia_ver6bas

 まさしくシェンクの『シャコンヌ』の低音旋律(主題)と同一であることが明確になる。この一致は単なる偶然の産物なのであろう?ヴァイスがシェンクから影響を受けた根拠の一つといったら言い過ぎであろうか。バッハにも見られるこの低音旋律の普遍性(由来)に起因するのだろうか?いや、シェンクとバッハにも何らかの接点があったのだろうか?

 もう少しその答えを調べてみたいが、転勤したら隔週で土曜日出勤ということになってしまった。あ~あ時間とれない。自転車に乗れない。どうしよう。

慣れない新しい職場でミーアキャット状態の藤兵衛である。

この稿、編集中

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シェンクの伝記、そしてヴァイスとの関係

  先日触れた ヨハン・シェンク (Johann Schenck1660~1716以降)はバロック音楽好きな人でもヴィオラ・ダ・ガンバ(ヴィオール)に興味がない人には全くなじみのない存在である。そんな彼に少しでも光を当てるべく数少ないCDや楽譜の解説やネットを調べて自分なりにまとめてみた。

                                                                            彼はドイツ系の両親の間にオランダのアムステルダムで生まれ、1660年6月3日に改革派の教会で洗礼を受けている。彼のアムステルダム時代の音楽の修行や活躍については定かではないが、17~18歳の頃にはオペラ(ジングシュピーゲル)やヴィオールの作品を出版するという才能の持ち主である。この時期の作品の献辞からアムステルダムの行政長官及び市民団体に関わっていたことが伺える。イギリス人からヴィオールの高い演奏技法を身につけたと思われる。

   その腕と、アムステルダムの経歴を買われ1696年に30代半ばでドイツ西部ライン川沿いのプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルム(Johann Wilhelm)のデュッセルドルフ宮廷のヴィオール奏者(おそらく兼侍従)として雇用された。そして選帝侯が死去する1716年までこの地で勤務し以下の作品を残している。(尚、オランダ語の辞書もなく、何となく判るop8及び9(後の本文で訳出)を除き表題はそのまま記述する…特にOeffeningenとはなんぞや?杉田玄白の『蘭学事始』で述懐した『ターヘル・アナトミア(解体新書)』の翻訳の苦労話は気が遠くなる…。)

アムステルダム時代

  • op.1 オランダ語オペラ"Eenige Gezangen uit de Opera van Bacchus, Ceres en Venus" 1687
  • op.2 "Tyd en Konst-Oeffeningen"1688  独奏ヴィオールと通奏低音のための15のソナタ
  • op.3 トリオソナタ集"Il Giardino Armonico"1691
  • op.4  宗教音楽"Psalm settings C.van Eekes Koninklyke Harpliederen"1694

デュッセルドルフ時代 

  • op.5   ZangWyze "Gargons Uitbreiding over't Hooglied Salomons"1697
  • op.6   "Scherzi Musicali" ヴィオールを含む室内楽作品
  • op.7   "Suonate a Violino o Cimbalo" 
  • op.8  "Le Nymphe di Rheno" 2つのヴィオールのための12のソナタ
  • op.9  "L'Echo di Danube" 1706  独奏ヴィオールと通奏低音の為の6つのソナタ 
  • op.10  "Les Fantaisies Bisarres De La Goutte"(通奏低音パートのみ現存) 
  • その他 ヴィオール独奏ソナタ(ヴェネチア手稿譜)などが存在

  彼の雇い主プファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルム(1658~1716)

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は、青年期ヴィーン、パリ、ローマ、ロンドンなどヨーロッパ各地を遊学し教養を高めデュッセルドルフに高水準の芸術をもたらす。音楽に関しては各地から名手が集められ宮廷音楽と宮廷オペラの華が咲く。コレルリの作品6のコンチェルトグロッソの選帝侯への献呈やヘンデルのデュッセルドルフ訪問はその最たる例である。市民は選帝侯を「ヤン・ヴェレム」と親しみをこめて称えたという。

 彼の在任中の最盛期には60人規模の楽師を宮廷で抱えていたといわれる。中心的なメンバーに格別バロック音楽史に足跡を残す重要人物は見当たらないが、後にドレスデン宮廷で活躍するヴァイオリンの名手(かのタルティーニも一目置いた)フランチェスコ・マリア・ヴェラチーニが1715年身を寄せていたように、ヨーロッパ各地の名手たちが客員として招かれていた。リュートの名手ヴァイスもその一人であろう。

 選帝侯の弟カール・フィリップ伯(Karl Philipp1661~1742)
兄の死後カール3世・フィリップとして選帝侯を継承

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に当時仕えていたヴァイスは

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彼に命じられて(あるいは随行して)デュッセルドルフ宮廷を訪問したのは間違いない。ドレスデン手稿譜のソナタハ短調第31番(S-C7)の冒頭にデュッセルドルフで1706年に作曲したとの記述(""Von anno 6. in Düsseldorf. ergo Nostra giuventu comparisce.")があるからである。ただし、ヴァイスが選帝侯の宮廷に正式に仕えた証拠はない。

 一方、彼の父及び弟が1709年この地でリュート奏者として雇われたとの記録がある。もし、それが事実なら、カール・フィリップが当時居住していたポーランドのブレスラウ(ヴァイスの出身地に近い)を活動拠点とするヴァイスが自分の代わりに彼らをデュッセルドルフ宮廷に周旋したとも考えられなくはない。 

  また、デュッセルドルフ宮廷では「侍従でも才能があれば演奏に加わった」という話が伝わっているが、その代表がこのシェンクであろう。アムステルダムの行政当局とのコネを持ち、デュッセルドルフに仕えた後もアムステルダムの出版社から作品を発表し当地との関係を保っている外交的手腕を買われ選帝侯の侍従の立場にシェンクはあった。事実、1710年、彼は王室のチェンバレン(執事卿)に昇進し、翌年この立場でフランクフルトにて皇帝カール6世の戴冠式に参列するなど、侍従としシェンクはウィーンやヴェネツィアなど各地を選帝侯に随行している。ちなみに、彼のヴィオールのための2つの曲集…「ライン川の妖精」op.8と「ドナウ川のこだま」op.9はそれぞれプファルツ選帝侯とハプスブルグ皇帝に因む双子のような外交的・政略的な意味合いが強い。

J_schenck

正装し台座に楽器をたてポーズをとるシェンク
ペータ・シェンクPieter Schenc画(弟とされていたが少なくとも実弟ではないという)
楽器はドイツで普及したサウンドホールが備わった6弦バスヴィオール

 これらのことを考慮するとデュッセルドルフ宮廷内外で選帝侯兄弟を通じてヴァイスとシェンクとの交流した可能性は充分ある。穿った見方をするならば弟伯としては兄選帝侯に新進気鋭のヴァイスの名人業をひけらかして鼻を明したかったのだろう。返す刀で兄は、ヴァイスより年長で海千山千の侍従のシェンクをして音楽を通じてやんわりと往なさせた様子が目にうかぶ。 

  1716年、選帝侯が亡くなるとデュッセルドルフの宮廷楽団は解散する。団員の多くは選帝侯を継いだカール3世フィリップの新宮廷マンハイムに移り、その後一世を風靡するマイマインム楽派のオーケストラの基礎をつくる。その間、東ドイツではヴァイスやヴェラチーニが雇われたザクセン選帝侯のドレスデン宮廷楽団が隆盛を誇る。

  残念ながら、1716年以降のシェンクの消息は判っていない。間もなくデュッセルドルフにて亡くなったかアムステルダムに帰り隠遁生活を送ったのか定かではない。

  オランダ製の自転車に乗っているくせにオランダ語がちんぷんかんぷんな藤兵衛であった。
(デュッセルドルフも訪問したことがあるのに当時はシェンクのことはちっとも気にかけていなかった迂闊者でもある。)

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