シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold,1796-1866)は、
(左:長崎県立長崎図書館蔵 右:国立国会図書館蔵)
東洋に憧れ1823年長崎出島のオランダ商館医として来日する。日本史でお馴染みの有名人。
滞在中、日本の文化や動植物を研究し、医者としての能力が買われて出島を出ての診療活動が許され、さらに鳴滝塾にて高野長英をはじめとする門下生に西洋医学を教授するなど日蘭交流に貢献している。また、楠本滝と結婚し娘イネが1827年に生まれている。このイネ(司馬遼太郎の『花神』に重要人物として登場する。1977年NHK大河ドラマ化)が村田蔵六に師事し 日本初の女医として活躍する※。1828年、一時帰国する際、国外持ち出しが禁じられている日本地図を所持していることが発覚し国外追放処分を受けた(シーボルト事件)。
※注:ちなみに初の正式の資格をもった女医は、我が勤務地埼玉県熊谷市(旧妻沼町)出身の荻野吟子(1851-1913)である。
彼が、どれだけ日本を愛していたかは、彼の記録やヨーロッパに持ち帰った膨大な収集品からも判る。事実、帰国後、生まれた息子を連れて再来日し、死去するまでヨーロッパで日本文化の紹介に尽力している。
シーボルト愛用?のお滝とイネの肖像入りの煙草入れが残っているが(下の写真※右は成人後のイネ)。 残念ながら両人との関係は冷えきってしまったようだ。それでも、色々な差別偏見にあいながらも父と同じ医の道を歩んだイネの姿は健気だ。彼女と荻野吟子がもし出会っていればどんなに心強かったことであろう。意外にも両者の関係を述べた論文は少ないような気がする。
近年、シーボルトと音楽について色々紹介されるようになってきた。最近日本に現存するシーボルトのピアノの修復が度重なる困難を経て完成し演奏も披露されている。ネットなどで「日本最古のピアノ」と紹介されているが、明らかに彼が日本に持ち込んだものである。
手元にある2001年8月21日の毎日新聞の「東京芸大で楽譜を発見 日本初のピアノ曲」という記事(執筆:梅津時比古氏)の切り抜きに、彼が離日する際に交友のあった山口県の商家熊谷(くまや)五右衛門に署名を添えて贈呈したものとある。
今ピアノというと重く大きなあの姿を思い浮かべ、え~っと思うかもしれないが、実物の写真を見ると納得する。参考:財団法人 熊谷美術館
英国製のご覧の通りの大きさのターフェルピアノ(卓状ピアノ)である。それでも結構重そうだが…ぜひ実物に触れてみたい。
「なぜ日本にピアノを持ち込んだのか?」と新聞の記事では「ヨーロッパの最新技術を紹介する説もある。シーボルト著の「江戸参府紀行」のなかに「中津藩の老公を音楽や歌やダンスでもてなし、楽しく過ごした」と言う記述があり、自らの楽しみや社交のためだったと見られる。TV番組の企画でこのピアノを弾いた羽田健太郎さんは、日本の音楽をピアノで弾いて楽譜に再現し、ヨーロッパに伝える目的だったろうという説を立てる。」
と一般読者のために周りくどく説明をされているが、楽器を嗜むアマチュアにとって答えは以下の一言につきる。先の引用文の要約にもなると思うが…
「自分が楽しむため」!
そもそも、彼はバイエルン州ヴュルツブルク (Wurzburg)の名門貴族に生まれたドイツ人である。当時の良家の子女の嗜みとして同地出身の音楽家ヨーゼフ・キュフナー(Joseph Kuffner,1776-1856)…ギターの易しい小品も残している~ホマドリームの菅原潤さんの記事が詳しい…からピアノの手ほどきを受けたらしい。
新聞記事で紹介されていた「シーボルトのピアノ曲」の楽譜…。
どうやら、シーボルトが日本で耳にした旋律を音符におこして持ち帰り、帰国後ピアノ曲(歌曲)に編曲され、1836年にオランダのライデンで7曲の「日本のメロディー」として初版が出版されたものである。芸大で発見されたものは1784年にウィーンで再版されたものをシーボルトの息子が来日した時に持ち込んだものいうことだ。「坊主にかっぽれ、あの子見たさにヤレコレ」云々とある歌詞(かっぽれ)から全くかけ離れた西洋的なものになっている。私は、シーボルトの了解をとって、一般大衆に馴染みやすいよう興業的に誰か(キュフナー?)が手を加えたものであると推論する。事実、「ワシントン(議会博物館)のものだけ表紙にキュフナー編曲と印刷されている。」と新聞記事は紹介している。しかし、それでも「(シーボルトが)作曲するにあたってキュフナーが手助けした」と懐疑的である。果たしてそうであろうか?
まず、シーボルトの他の音楽作品や音楽家としての業績(記録)が知られていないというだけではなく、真摯な研究者であるシーボルトが日本の音楽を歪めて伝える訳がないと私自身は思っている。西洋の価値観(視点)で東洋の文化を改編書き直すのは冒瀆行為に他ならない。このことはシーボルトの本意ではあるまい。もっとも日本の曲をそのまま単旋律で出版しても買うのは余程のマニアックな人々であろう。だからこそ、エキゾチックな雰囲気だけを求める大衆向けに出版社がキュフナーに全てを委ねたのだろう。それが事実ならキュフナー編曲というよりもキュフナー作曲といっても良いのではないかしらん。
最近、明治大学法学部加藤徹教授のHPで興味深い資料を見つけた。(教授はアコーディオンの愛好家でもあられる)
シーボルトが、日本滞在中、月琴の中国(明清楽)の小品「 Ein chinesisches Liedchen auf die Gekkin」を五線譜におこした直筆譜の一部である。
音価があわない部分もあるが細かいリズムなどを正確に聞き取ろうとしていたことがうかがえる貴重な資料である。まさしく研究者としての面目躍如と言ったところか…。むしろ、先に紹介した新聞の羽田氏の説は、ピアノ無しには採譜できないとしたら音楽家としてのシーボルトの能力の低さを証明することになるのだが…。
日本の音楽採集を「訪日プロジェクト」のミッションの一つとパトロン(阿蘭陀政府)に言い包めて大型の楽器の運搬費を肩代わりさせることをもくろんだのなら、シーボルト=スパイ説も頷けよう。とにかく、したたか(笑い)
次に、昔、仕事で長崎に出張し、訪れた出島で手に入れたイラストマップ「シーボルト1826江戸に行く」(シーボルト記念館板(版?))の「出島に帰る編」に興味深いシーンがある。彼の『江戸参府紀行』の記録から松尾龍之介さんが書きおこしたものだが…。とにかく当時の様子がありありと浮かび見ていて楽しい。
大坂では「歌舞伎を見て感動する。帰国してからオペラにしようと試みた。」の場面もあるが、オペラ創作に挑んだのが自分自身なのか、脚本家や作曲家に委嘱したのかは読みとれない。これこそキュフナーに相談したことは充分推測できるが…オペラを生業としていないキュフナーがどう応えたことやら…。
この「シーボルト事件の発端を物語る場面」、「お滝さんへの愛情を物語る場面」もさることながら「ギターやピアノの伴奏」で島津重豪とのダンスの場面がなんといっても微笑ましい。
しまづしげひで1745-1833…あの有名な斉彬の曾祖父。名君ではあるが異常な程の阿蘭陀びいきで有名。シーボルトは80歳余りの彼をどう見ても60代にしか見えないと評している。そうでなければダンスはできまい。先の新聞記事では「中津藩の老公を音楽や歌やダンスでもてなし、楽しく過ごした」となっているが、その時の中津藩の当主は、1786年、中津藩奥平家の当主が急逝したことにより同家の末期養子として跡を継いだ島津重豪の次男の奥平昌高(1741-1755)である。彼は、直前に江戸で父にシーボルトに紹介されており、この日も父と同席していたと思われ錯綜したのであろう。この昌高も以後シーボルトと交友を重ね、実父に劣らない蘭癖となっていくのである。また、重豪は曾孫の幼い斉彬をシーボルトに引き合わせている。この重豪の「蘭癖」無くして、のちに明治維新のキーパーソンの一人となった島津斉彬(…さらに宮崎あおい演ずる篤姫も)も存在しなかったのである。
その時のピアノは長崎から運んだ彼のピアノなのだろうか?江戸の長崎屋にもピアノがあったのだろうか?ギターはいわゆる19世紀ギターなのか?前段階の5弦複弦ギターなのか?製作された国や時期は?…などと興味はつきない。できれば本格的にシーボルトの史料(資料)や論文をいろいろあたってみたいのだが…時間がない…これだけでも書けたのが奇蹟だ。
シーボルトは決闘好きと聞いて結構驚いた藤兵衛であった。
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