バッハとリュートあれこれ(19)~BWV998その6
クリスマスになって慌てて忘却のかなたに飛んでいたBWV998「三位一体のソナタ」の続編をまとめてみた。何でこの「聖夜」に?…かは、読んでいただければ納得いただけるかも…。
4分音符による簡素な主題でBWV998のフーガは
対位法書法においては特に見るべきものがない単純なものである。というよりも主題が最初の応唱からいきなり意味不明に変形され、挙げ句には分解されたりしておりその作風のぎこちなさを指摘する研究者は少なくない。
しかし、私は、その「ぎこちなさ」はバッハのリュートに対する演奏(楽器)法に対する熟知がもたらした制約という「矛盾」に起因するものと考える。
つまりフーガ主題の応唱をいかにリュートの演奏に耐えるものにするかというバッハ腐心の妥協の産物なのである。基本主題と5度転調した応唱主題を示す。
括弧でしめした♮記号に注目してもらいたい。一般の音楽理論、楽器法では何の問題も無いことであるが、リュートでは演奏上致命的な制約を強いられる。それは、特定の調整に合わせた低音弦チューニングにある。この曲の調性変ホ長調にあわせた6コース以下の4低音弦のチューニングを示す。
転調によって♮がつくことは、指板外に張られた拡張低音弦では演奏不可能である。変ホ長調の下属音であるをA♭開放弦として要求される6コースは指板上にあっても、A♮を使用することにより上声部の音域の制限が生じたり、非常に困難な技巧を要求される。(6コース第1フレットを押さえてA♮を出そうとすると5コース以降の押弦が困難となる。場合によっては7コース以下の高フレットの押弦を余儀なくされる。ジャーマンテオルボ型の後期バロックリュートでは事実上楽譜通りの演奏は不可能となる。フーガの11小節目は明らかにそうした問題を忌避した主題が現れる。
3小節目の最初の応唱でいきなり現れる主題の変形は、その予兆としたら納得できる。
また、A-B-Aのダカーポ型式のAの部分で思い切った転調は避けていることからもこのタブーを意識したからのことに間違いない。それでも音楽の流れ上避けられない部分は生じている。特にファンタジー風に展開された中間部Bではそれらの制約を無視して高度な技巧を要求してくるところはバッハの面目躍如といったところ…。
この気遣いは、ヴァイラウフやヴァイス達との交際によって煮詰められたバッハの最後のリュート作品であることを物語っていおり、BWV998はあくまでもリュートを想定して作曲されたことの確かな裏付けとなると言えよう。
また、主題の後半部分の上昇音階(反行された下降音階)を切り取りあちらこちらに配置することにより象徴的な意味をバッハは持たせたのに違いない。それは、十字架につけられたイエスの昇天であり、聖霊の降臨つまり次のアレグロの下降する音型の予兆と私は考える。主題の変形も「イエスの変容」をあらわしていると言えなくもないが…。
そこで、このシンプルな四分音符の主題は何処からきたのであろうか?…と改めて考察してみよう。一つは、前述した通りバッハのリュートの楽器法に対する理解の深まりである。リュートは鍵盤楽器の左手を右手親指一本で担っていることをしっかり認識したということはいうまでもない。(逆に考えればBWV997は鍵盤曲に限りなく近い。)
また、先行するプレリュードのテクストとも明瞭に関連づけられる。
この単純な旋律をコラールの楽節と結びつける研究者がいる。D.シューレンバーグはその著『バッハの鍵盤音楽』佐藤望/木村佐千子共訳(小学館)でそのことに触れている。
ちなみに彼は、同著でバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第3番ハ長調BWV1005フーガ主題についても聖霊降臨節用のカンタータ『人もし我を愛せば、我が言を守らん』BWV59のコラール(ルター作詩 J.リスト作曲)からの引用と指摘している。
また、無伴奏ヴァイオリンパルティータ2番の有名なシャコンヌ主題もコラールが引用されているとの別人物の説もあり(…これらは別の機会に述べたいが…)説得力がある。
D.シューレンバーグは復活節用カンタータ『主イエス・キリスト、まことの人にして神よ』BWV127に用いられているコラール第一節にこのフーガの主題と共通性を指摘している。
まさに後半部の上昇音型は前述した自説の象徴的意味を裏付けるものであった。彼のこの説は、以前から温めていた自説の殻を割らせてくれたのである。なぜ、バッハはBWV998 のフーガに、不都合が生じるこの主題をあえてつかったのか?
そう、BWV998のアレグロの冒頭の音型に関して指摘したカノン風(コラール)変奏曲『高き御空より我は来れり』BWV769との関連性がより明確になったのである。つまり、このコラールの第1節もD.シューレンバーグの指摘した『主イエス・キリスト、まことの人にして神よ』のコラール同様、BWV998のフーガ主題に酷似しているのである。
改めて三者を並列して比較してみれば一目瞭然である。
前半部に違いがあるものの甲乙はつけがたい。「三位一体」の象徴としてBWV127のコラールも遜色はない。しかし、私は自説に従って『高き御空より我は来れり』の方に軍配をあげ「BWV998のフーガ主題は、このクリスマス用のコラールの第1節の旋律をメタフォー(隠喩)またはパラフレーズ(敷衍)したもの」と結論付けたい。なぜ、ストレートに引用しなかったかの疑問は、何度も言及しているバッハの象徴法のなせる技と考える。あくまでも素人考えでバッハ研究においてこじつけとの誹りを免れない手前味噌的発想にしかすぎないが、御笑覧くださると幸いである。
コラール旋律の中間部の音符を3度(!)あげることにより、バッハはこの主題に「子なるイエス」の姿を織り込ませたのだといったら穿ち過ぎであろうか。主音で始まり主音に帰結する主題の中心の音符を浮きださせ頂点となし、十字架にかけられたイエスの姿をまさに象徴したものである。
こうした十字架の象徴はスメントをはじめとしてバッハ研究においては周知されていることである。確かに、この主題においてはその姿は鮮明ではなく一笑にふされても仕方ないが、素人の厚かましさで次回もう少し抗弁してみたいと思う。
聖夜にこんなこと書いて、本当にディレッタントだな~と感じる藤兵衛であった。
ウ~ん、気がついてみたら朝になってしまった…。とりあえずアップ、あとでジックリ推敲…。
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