藤兵衛の由来
お盆である。
この時期は親の代から旅行なぞしたためしがない。お盆中唯一しかも家族もろとも家を空けたのは、皮肉にも突然の病で入院した父親の最後を看取った時だけである。長男としてご先祖様と、一族郎党の帰省のお迎えに追われるからである。それに父親の命日も加わった訳である。今日も、弟たちとたんと酒をつきあった。貴重な夏休みが他人のために取られてしまうということが恨めしいが、1年に一度ご先祖様を迎えると神妙な気持ちになる。
そこで、ご先祖様を偲びがてら、「藤兵衛の由来」をあかしたい。
私の「藤兵衛」というハンドルネーム…。実は私の10代前のご先祖様のご尊名を拝し奉っているのである。
我が家に伝わる先祖代々の位牌から作成したと思われる略系図によると、判明できる一番古い我が家のご先祖様は寛保二年(1742)に没した七左衛門であり、その跡取り息子が藤兵衛であった。その没年は宝暦六年(1756)なので世継ぎを残さぬまま早世したことがうかがえる。系図では養子が「藤兵衛」を襲名し天寿をまっとうしている。
ここで、日本史の時間…。この頃は8代将軍徳川吉宗の治世(享保の改革)の末期。1742年は、公事方御定書が発布され、吉宗は1745年に将軍職を退き、1751年に没している。ちなみに吉宗の生年は1684年であるからして、バッハやヴァイスとほぼ同世代。地球上で同じ空気を吸っていたことになる。
その後、明治に至るまで当主はおそらく「七左衛門」と「藤兵衛」を踏まえて「藤左衛門」を字(あざな)として踏襲している。明治最初の当主「藤吉」以降、当世風の名前になり、「藤」の字すら受け継がなくなったが、世が世なら私は歌舞伎役者みたいに8代目藤左衛門をなのっていたことになる。
しかし、養子であった2代目藤兵衛は略系図に「本家中興之祖」と記されており、それなりの地位(役職)を確立したと思われ本家にとっては重要なご先祖様といえる。また、先代の七左衛門をふくめ両名が存命していた時期はバッハやヴァイスの活躍していた後期バロック時代と重なるのである。ちなみに初代藤兵衛の没年はモーツァルトが生まれた年でもある。
その様なことを意識して3代目「藤兵衛」を僣称した次第である。
明日、墓前で正式な襲名のお許しを願うつもりの藤兵衛である。
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