« シェンクのシャコンヌ=バッハのゴルトベルク変奏曲!? | トップページ | 続シェンクとヴァイス~つながり »

シェンクの伝記、そしてヴァイスとの関係

  先日触れた ヨハン・シェンク (Johann Schenck1660~1716以降)はバロック音楽好きな人でもヴィオラ・ダ・ガンバ(ヴィオール)に興味がない人には全くなじみのない存在である。そんな彼に少しでも光を当てるべく数少ないCDや楽譜の解説やネットを調べて自分なりにまとめてみた。

                                                                            彼はドイツ系の両親の間にオランダのアムステルダムで生まれ、1660年6月3日に改革派の教会で洗礼を受けている。彼のアムステルダム時代の音楽の修行や活躍については定かではないが、17~18歳の頃にはオペラ(ジングシュピーゲル)やヴィオールの作品を出版するという才能の持ち主である。この時期の作品の献辞からアムステルダムの行政長官及び市民団体に関わっていたことが伺える。イギリス人からヴィオールの高い演奏技法を身につけたと思われる。

   その腕と、アムステルダムの経歴を買われ1696年に30代半ばでドイツ西部ライン川沿いのプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルム(Johann Wilhelm)のデュッセルドルフ宮廷のヴィオール奏者(おそらく兼侍従)として雇用された。そして選帝侯が死去する1716年までこの地で勤務し以下の作品を残している。(尚、オランダ語の辞書もなく、何となく判るop8及び9(後の本文で訳出)を除き表題はそのまま記述する…特にOeffeningenとはなんぞや?杉田玄白の『蘭学事始』で述懐した『ターヘル・アナトミア(解体新書)』の翻訳の苦労話は気が遠くなる…。)

アムステルダム時代

  • op.1 オランダ語オペラ"Eenige Gezangen uit de Opera van Bacchus, Ceres en Venus" 1687
  • op.2 "Tyd en Konst-Oeffeningen"1688  独奏ヴィオールと通奏低音のための15のソナタ
  • op.3 トリオソナタ集"Il Giardino Armonico"1691
  • op.4  宗教音楽"Psalm settings C.van Eekes Koninklyke Harpliederen"1694

デュッセルドルフ時代 

  • op.5   ZangWyze "Gargons Uitbreiding over't Hooglied Salomons"1697
  • op.6   "Scherzi Musicali" ヴィオールを含む室内楽作品
  • op.7   "Suonate a Violino o Cimbalo" 
  • op.8  "Le Nymphe di Rheno" 2つのヴィオールのための12のソナタ
  • op.9  "L'Echo di Danube" 1706  独奏ヴィオールと通奏低音の為の6つのソナタ 
  • op.10  "Les Fantaisies Bisarres De La Goutte"(通奏低音パートのみ現存) 
  • その他 ヴィオール独奏ソナタ(ヴェネチア手稿譜)などが存在

  彼の雇い主プファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルム(1658~1716)

Johann_wilhelm

は、青年期ヴィーン、パリ、ローマ、ロンドンなどヨーロッパ各地を遊学し教養を高めデュッセルドルフに高水準の芸術をもたらす。音楽に関しては各地から名手が集められ宮廷音楽と宮廷オペラの華が咲く。コレルリの作品6のコンチェルトグロッソの選帝侯への献呈やヘンデルのデュッセルドルフ訪問はその最たる例である。市民は選帝侯を「ヤン・ヴェレム」と親しみをこめて称えたという。

 彼の在任中の最盛期には60人規模の楽師を宮廷で抱えていたといわれる。中心的なメンバーに格別バロック音楽史に足跡を残す重要人物は見当たらないが、後にドレスデン宮廷で活躍するヴァイオリンの名手(かのタルティーニも一目置いた)フランチェスコ・マリア・ヴェラチーニが1715年身を寄せていたように、ヨーロッパ各地の名手たちが客員として招かれていた。リュートの名手ヴァイスもその一人であろう。

 選帝侯の弟カール・フィリップ伯(Karl Philipp1661~1742)
兄の死後カール3世・フィリップとして選帝侯を継承

Carl_philipp

に当時仕えていたヴァイスは

Weiss

彼に命じられて(あるいは随行して)デュッセルドルフ宮廷を訪問したのは間違いない。ドレスデン手稿譜のソナタハ短調第31番(S-C7)の冒頭にデュッセルドルフで1706年に作曲したとの記述(""Von anno 6. in Düsseldorf. ergo Nostra giuventu comparisce.")があるからである。ただし、ヴァイスが選帝侯の宮廷に正式に仕えた証拠はない。

 一方、彼の父及び弟が1709年この地でリュート奏者として雇われたとの記録がある。もし、それが事実なら、カール・フィリップが当時居住していたポーランドのブレスラウ(ヴァイスの出身地に近い)を活動拠点とするヴァイスが自分の代わりに彼らをデュッセルドルフ宮廷に周旋したとも考えられなくはない。 

  また、デュッセルドルフ宮廷では「侍従でも才能があれば演奏に加わった」という話が伝わっているが、その代表がこのシェンクであろう。アムステルダムの行政当局とのコネを持ち、デュッセルドルフに仕えた後もアムステルダムの出版社から作品を発表し当地との関係を保っている外交的手腕を買われ選帝侯の侍従の立場にシェンクはあった。事実、1710年、彼は王室のチェンバレン(執事卿)に昇進し、翌年この立場でフランクフルトにて皇帝カール6世の戴冠式に参列するなど、侍従としシェンクはウィーンやヴェネツィアなど各地を選帝侯に随行している。ちなみに、彼のヴィオールのための2つの曲集…「ライン川の妖精」op.8と「ドナウ川のこだま」op.9はそれぞれプファルツ選帝侯とハプスブルグ皇帝に因む双子のような外交的・政略的な意味合いが強い。

J_schenck

正装し台座に楽器をたてポーズをとるシェンク
ペータ・シェンクPieter Schenc画(弟とされていたが少なくとも実弟ではないという)
楽器はドイツで普及したサウンドホールが備わった6弦バスヴィオール

 これらのことを考慮するとデュッセルドルフ宮廷内外で選帝侯兄弟を通じてヴァイスとシェンクとの交流した可能性は充分ある。穿った見方をするならば弟伯としては兄選帝侯に新進気鋭のヴァイスの名人業をひけらかして鼻を明したかったのだろう。返す刀で兄は、ヴァイスより年長で海千山千の侍従のシェンクをして音楽を通じてやんわりと往なさせた様子が目にうかぶ。 

  1716年、選帝侯が亡くなるとデュッセルドルフの宮廷楽団は解散する。団員の多くは選帝侯を継いだカール3世フィリップの新宮廷マンハイムに移り、その後一世を風靡するマイマインム楽派のオーケストラの基礎をつくる。その間、東ドイツではヴァイスやヴェラチーニが雇われたザクセン選帝侯のドレスデン宮廷楽団が隆盛を誇る。

  残念ながら、1716年以降のシェンクの消息は判っていない。間もなくデュッセルドルフにて亡くなったかアムステルダムに帰り隠遁生活を送ったのか定かではない。

  オランダ製の自転車に乗っているくせにオランダ語がちんぷんかんぷんな藤兵衛であった。
(デュッセルドルフも訪問したことがあるのに当時はシェンクのことはちっとも気にかけていなかった迂闊者でもある。)

|

« シェンクのシャコンヌ=バッハのゴルトベルク変奏曲!? | トップページ | 続シェンクとヴァイス~つながり »

音楽」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: シェンクの伝記、そしてヴァイスとの関係:

« シェンクのシャコンヌ=バッハのゴルトベルク変奏曲!? | トップページ | 続シェンクとヴァイス~つながり »