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バッハとリュートあれこれ(13)~続ヴァイラウホの周辺

 ヴァイラウフ(Johann Christian Weyrauch 1694~1771)について、後日調べて判ったことがある。

バッハは、1730年の1月14日ヴァイラウフのために能力証明書を発行している。
            『バッハ 辞典』東京書籍P.555 

  ケムニッツ聖ヤコブ教会カントル候補として応募する目的である。詳しい内容にはたどり着けなかったが、オルガンとリュートの演奏技術を評価しているらしい。その結果については確かめる術はないが、先の1727年,バッハの弟子のヴィルド(Friedrich Gottlieb Wild  1700~1762)が同教会に応募すべく同様に能力証明をもらい応募したのだが不成功に終わっているところを見ても、ヴァイラウフも選に漏れたのであろう。30半ばを過ぎての音楽家としての道をあきらめ公証人としてライプチヒに落ち着くことになったのである。もっともヴィルドは、1735年に晴れてペテルスブルグのオルガニストに就任している。

 いずれにせよ、ヴァイラウフはこのことからもバッハから音楽の手ほどきを受けていたことは間違いない。

 さらに、浮かび上がるのは、ヴァイスにも学んだ主にバイロイトで活躍したリュート奏者ファルケンハーゲン(Adam Falckenhagen 1697-1754)との関係である。ライプチヒ近郊で生まれたファルケンハーゲンは10歳の時、ヴァイラウフの生地である近隣のクナウトアイン(Knauthain)に移り住み、この地の牧師である叔父Johann Gottlob Erlemannの元で8年に渡り文学や音楽を教わっている。同時期、3歳年長のヴァイラウフとこの地で暮らしていたのは確かである。クナウトアインはバッハの『農民カンタータ』BWV212の歌詞の中にも名前が出てくる村である。確証は無いが狭い地域社会であるため、教会を通じて彼らは顔見知りだったに違いない。ヴァイラウフと同じように、ファルケンハーゲンも1719年から2年間あまりライプチヒ大学に籍をおいている。この頃、ファルケンハーゲンは、ライプチヒの西隣のメルゼブルク(Merseburg)にてヨハン・ヤコブ・グラフ (Johann Jacob Graf(1690~?) に本格的なリュートの手ほどきをうけることになる。

 このファルケンハーゲンについては、バッハとも意外なところで接点がありいずれ紹介したいと思っている。ここでは、バッハが1727年~31年の間に無伴奏チェロ組曲第5番をリュートに編曲し(BWV995)、それをタブラチュアに起こしたのはファルケンハーゲンがバイロイトへ転居する1733年以前のことだと言えるとだけ触れておこう。先のヴァイラウフの能力証明が書かれた時期と重なるところが実に意味深である。

ちなみに、YouTubeでとてつもないものを発見!
なんとヴァイラウフのプレリュード! (゚ロ゚屮)屮

Weypre_pianka

→こちら

 イル・ジャルディーノ・アルモニコのメンバーとしても知られるルッカ・ピアンカ(Luca Pianca)がアーチリュートにてハープを従えて演奏している。BWV998のプレリュードを彷彿とさせる妙なる調べ…。う~ん、これがヴァイラウフのオリジナル(鍵盤曲の可能性も)だとしたら大発見もの!アルビノーニのアダージョの例みたいに何となく眉唾ぽくもなくはない?なんかどこかで聴いたような感じもしなくない。もしかしたら現代の宗教音楽の作曲家Johannes  Weyrauch(1897-1977)の作品?名前も紛らわしい…。

 ピアンカは、BWV997パルティータハ短調の第2楽章のフーガをチェンパロに声部を振り分け演奏(録音)している凶状持ち(?)である。ジーグも繰り返し部分をチェンパロ演奏のドゥーブルに振っている…身構えて聴いていないと非常に心臓に悪い。今回も何かしでかしている?

う~んとにかく謎だ…

 このところの寒さでうっかり冬眠してしまうところの藤兵衛であった。

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