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2008年11月の9件の記事

バッハとリュートあれこれ(12)~ヴァイラウホの周辺

 バッハのリュート作品BWV997パルティータハ短調およびBWV1000フーガト短調のタブラチュア譜を残しているヴァイラウフ(ヴァイラウホという表記もある)とは何者なのだろう。手元にある文献で調べてみた。  

ヨハン・クリスティアン・ヴァイラウフ(Johann Christian Weyrauch 1694~1771)

ライプチィヒ大学卒業。同地の新教会オルガニストに志願するが果たせず、市の公証人となる。 『バッハ辞典』東京書籍 p.471

 …と、引用元の記述はそっけない。

 イメージをつくる上で、彼はバッハより11歳年下であるということから確認していこう。バッハがライプチヒのトーマス・カントルに就任した1723年において、バッハ38歳、ヴァイラウフ27歳ということになる。そこでまず判るのは、ヴァイラウフの新教会(マタイ教会)オルガニスト就任の件についてはバッハの与り知らぬことだったのであろう。

 ヴァイラウフの職業である公証人とは財産に関連する様々な手続き(相続・譲渡・登録・商取引・契約)に必要となる法的書類の下書きや保管・証明を行う専門家である。と言ってもある程度の知識があれば容易になれる職業ということで、ライプチヒのような大都市では数多く存在し、手腕次第で富と社会的地位を築けたらしい。

 少なくとも、彼はオルガニストを志願したからには音楽の素養もかなりあったことがうかがえる。           

 その彼が、どのように音楽を学び、リュートをおぼえ、バッハと出会ったのだろうか。興味深い資料が伝わっている。

 ポーランドの自治都市ダンツィヒ(現グダニスク)に住むルイーゼー・アーデルグンデ・ヴィクトーリエ・クルムスという音楽好きの女性が将来彼女の結婚相手となるライプチヒ在住のヨーハン・クリストフ・ゴットシェートにあてた1732年5月30日付けの書簡である。

「お送りくださいましたバッハのクラヴィーアのための作品と、ヴァイラウフのリュートのための作品、どちらもその美しさに劣らず骨の折れるものばかりでございます。十回も弾きましたのに、こういうものが相手ではいつまでたっても自分が初心者みたいに思えます。この両大家のものでしたら、こうしたカプリッチョ以外のもののほうが、私には気に入っております。これらの作品には測り知れないむずかしさがあります。」『バッハ叢書』第10巻バッハ資料集 白水社 P.110 

 これによると、1732年のヴァイラウフ36歳の時にはすでにリュートの作品を作曲していることがわかる。残念ながら、その他の作品も現存していないようであり、彼の作品の実態はわからない。ちなみに文中のバッハの作品とは、この書簡の書かれた前年の1731年にライプチヒで出版された六曲のパルティータ(BWV825~830)から成る『クラヴィーア練習曲集 第一部』のことであることは間違いない。最後のほうに紹介されているカプリッチョ
Capri
は、同曲集第2番ハ短調BWV825の最終楽章と思われる。確かに10度の跳躍が主題に用いられている。この曲集は当時、ライプチヒでは画期的な作品として話題となっていたらしい。ただし、文中にある通り、アマチュアには手に負えない 程技巧的であったので出版元が売れ残りを持て余したという。この手紙の主のルイーゼは音楽についてかなり素養があり彼女の人脈から思わぬバッハとの繋がりが浮かび上がってくる。(このことについては後述)その彼女が結婚してライプチヒで一緒に暮らすことになる手紙の相手
ヨーハン・クリストフ・ゴットシェート…
Gottsched

Johann Christoph Gottsched 1700~1766

 彼はヴァイラウフと同じライプチヒ大学に学び、この書簡の数年前の1730年よりライプチヒ大学の詩学教授となり、劇作家、文芸理論家としてライプチヒでは著名な文化人である。ヴァイラウフより6歳年下の後輩にあたる。そして、なによりも彼は1727年に演奏されたリュートが使用されたバッハのBWV198追悼頌歌の作詩者でもある。この曲の上演に際して、ゴットシェートを通じてバッハはヴァイラウフと知り合う機会を得たという憶測もなりたつ。その時用いられた2棹のリュートの一つをヴァイラウフが受け持ったと考えられ無くもない。

 その事は、ゴットシェートが音楽好きの恋人のルイーゼにバッハとヴァイラウフの二人の作品を送っていることからも推測できる。ルイーゼの「この両大家のものでしたら」という言葉からもゴットシェートが(彼女の気を引こうとして)ライプチヒで選りすぐりの音楽家として二人を紹介していることが読みとれる。

 ただ、ゴットシェート(及び彼の妻ルイーゼ、多分ヴァイラウフも含めた彼のサークル)とバッハの関係はあまり親密ではない。バッハが彼の詩をもとに作曲した例は1725年の散逸した結婚カンターター(番号無し)および、年月をおいた1738年の同じく散逸したカンタータBWV Anh.13などしか知られていないからもわかる。

 また、ヴァイラウフの記録としては、「1743年、バッハがヴァイラウフの子供 J.S.ヴァイラウフの代父を務めた」(『バッハ辞典』東京書籍P.567)と、この頃には、かなり親密な関係になっている。(代父とは出生した赤子の洗礼の儀式にたちあう人物であり、いわば結婚式の仲人と同じように子供の両親とって家庭的にも社会的にも恩人として尊敬すべき存在といえる。)

 それらのことからヴァイラウフのBWV997のタブラチュアの成立が1740年頃であるという時期に着目するならば、ゴットシェートの詩を1738年のカンタータに用いたことにより、ヴァイラウフと久しぶりに交際が再開したことによるものとも考えられる。同時に彼らと疎遠な期間はバッハのリュート曲の空白の期間でもある。もし、ヴァイラウフとの交際がつづいていたならばこの期間にもっとリュート作品が生まれているはずだ。改めてこのように整理すると楽譜のすかし模様から1727~31年の間に無伴奏チェロ組曲第5番を編曲したとされるBWV995ト短調組曲の存在が非常に気になる。また、後年のヴァイラウフの一連のタブラチュアの残る作品は、バッハが彼に献呈したものかも知れない。あるいは、バッハ家を訪問したヴァイスに、バッハがヴァイラウフを紹介した可能性もある。もしかしたらヴァイスのためタブラチュアにおこしたとも考えてもおかしくはない。これが縁となってヴァイラウフとバッハは親密な交際を続け、1743年、ヴァイラウホ47歳の時、何番目かの息子の代父を依頼したと考えられる。息子に命名された"J.S."が、"Johan Sebastian"だとしたら、ヴァイラウフとバッハの関係はかなり強いといえる。バッハのリュート作品を考える上で彼の存在を無視することはできない。

 自分で調べられたのはここまでだが、彼に関してもっと知りたいと思う。彼に関する研究論文もきっと出ているのだろう。

   さぼりのつけがたまり持て余し気味の藤兵衛である

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寺神戸 亮 ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ公演ご案内

【寺神戸亮ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラ公演】
    国内2008年最後の公演を紹介。

ヴィオロンチェロ・ダ・スパッラによる
~J.S.バッハ 無伴奏チェロ組曲~
  • 12/ 4(木)16:00 朝日カルチャーセンター レクチャーコンサート
  • 12/ 6(土)・7(日)15:00 松明堂音楽ホール(2days:全曲
  • 12/12(金)・13(土) [大阪・服部]ノワ・アコルデ音楽アートサロン(2days:全曲
  • 12/14(日)14:00 浜松市楽器博物館レクチャーコンサート第1・3・6番
  • 12/16(火)19:00 近江楽堂 (第2・3・6番)            

詳しくは【寺神戸亮オフィシャルホームページ】 を!

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 演奏会の案内をいただきました。せっかくですのでご紹介いたします。
ヴィオロンチェロ・ダ・スッパラについて2008/7/29の記事 で紹介しています。
興味のある方は是非お出掛けください。

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藤兵衛、幻日に遭遇する。

 ここのところ気忙しい日が続く。特に期日の迫った仕事は無いが師走が近いせいだろう。冬の訪れはモチベーションを下げる。

 うまいタイミングに昨日、この夏に発注していた新車(といっても自転車…念願の本格リカンベント!…そのうちお披露目)がオランダから届き、早速初乗りし気分が高揚してきた。それなのに、連休今日は休日出勤、明日は出張とままならない。「本日晴天なり」の天気予報を恨めしく職場に向かった…weep

  Oh my God!!… 異様な光景に遭遇し車を停める。何と東空に太陽が2つ!よく見ると虹の様でもある。高層の雲に太陽光線が屈折して現れる「幻日」という現象である。右側が本物の太陽。左側の「幻日」の下のシルエットは行田市古代蓮公園内の展望タワー。

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しばし見惚れる。
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途中、お弁当を買いに立ち寄ったコンビニにて…。時刻は午前7時40分頃。「幻日」というか何時ぞや見た「彩雲」 にも似てきた?。

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程なく職場に到着。東の空はますます妖しく、「内暈(ないうん、うちかさ)」の様相を呈してくる。時刻は午前8時頃なので実際はもっと明るい。

こうした異常現象には昔から血が騒ぐ。誰もいない職場で一人盛り上がる。
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 やがて太陽の右側にも「幻日」が出現。雲の切れ間に虹の様な光が妖しく覗く。
あたかも太陽が3つ出現したかのよう。左右の「幻日」を拡大して並べてみる。

午前8時20分頃の様子。左右の「幻日」は競いあうかのように明るさや色彩を刻々と変化させる。
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飽かず眺めていたいのだが、仕事に取りかからねば…。

小一時間程して外を見ると雲から抜き出たいつもの一つの太陽。

仕事も思わずはかどり、この先少し余裕がもてることと相成った。

「勤労感謝の日」の思わぬ贈り物に一服の清涼剤というか元気をもらった藤兵衛であった。

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藤兵衛、忘れたころにピアノを弾く

 先日の記事を書いていたら無性にバッハのBWV825~830『クラヴィーア練習曲』第1部のパルティータのことが気になりだした。思いが募って楽譜を探し出し、
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(手にしたのはベーレンライター原典版ではなく慣れ親しんだこれ…なんといっも実用譜)

久しぶりにピアノの蓋を開けた。

 う~ん…何ヶ月いや何シーズン?ぶり…。調律がかなりあやしく鍵盤の戻りが一部おかしい。かなりほったらかしにしていた証拠だ。気を取り直して取りあえずお気に入りの第1番の変ロ長調の前奏曲から弾き始める。つっかえつっかえ…尤もまともに弾いたことも無いのだが…やはりバッハは弾きがいがある。

 第2番ハ短調のシンフォニアまでなんかとたどり着いたところで、なまくら指が悲鳴をあげる。後はつまみ食い。同じく第2番サラバンド、第4番ニ長調アルマンド、クーラント、ジーグの前半部をかじりまくる。ついに第6番ホ短調クーラント前半部の32分音符のアルペジオ部分で指がつる。まだ、弾きたい曲もあるのに…時計をみたら結構な時間。後遺症でリュートが弾けなくなっても困るので、後ろ髪を弾かれる引かれるも、ピアノの蓋を閉じてお開き?と相成る。

 あ~、第3番のクーラントとあれも忘れていた~…となんとも未練がましい藤兵衛であった。

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バッハとリュートあれこれ(11)~バッハはいつリュート作品を作曲したのか?

 バッハのリュート作品はどのようにして生まれたかを考える場合、作曲(編曲)された年代を整理しておく必要がある。『バッハ辞典』磯山雅/小林義武/鳴海史生編集 (東京書籍)などを参考に自分なりに以下にまとめてみた。成立年は『校訂報告』をもとに『バッハ辞典』の説を併記する。

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◎ヴァイマール時代(1708~ 1717) 23~32歳

 若きオルガニスト、宮廷音楽家として次第に円熟味をみせる時代。オルガン、チェンバロ曲、無伴奏ヴァイオリン曲の一部など器楽曲の他、本格的にカンタータを作曲しだす。

  • BWV996  組曲e-moll 1710~1717 ※1712頃(『バッハ辞典』)

◎ケーテン時代(1717~1723) 32~38歳

 宮廷楽長として、ブランデンブルク協奏曲、インヴェンション、平均律クラヴィーア曲集第1巻、無伴奏ヴァイオリン曲などの代表的な器楽曲の名曲を生み出す。1717年にドレスデンを初訪問

  • BWV999前奏曲   c-moll 時期特定不可能  ※1720頃、ケーテン?(『バッハ辞典』)        

◎ライプチヒ時代第Ⅰ期(1723~1729) 38~44歳

 トーマス・カントルとしてカンタータ、受難曲など教会音楽作曲に精力を注ぐ。また聖トーマス教会附属学校教師としての職務にも追われる。職務や待遇をめぐり市参事会との衝突が次第に激しくなる。

  • BWV245 ヨハネ受難曲初稿 1724  第19曲アリオーソ ※翌年改訂リュートの無い別の曲に差し換え→ 1730(第3稿)で復活
  • BWV244b マタイ受難曲初稿 1727(29) 第56曲レシタティーボと第57曲アリア
  • BWV198 追悼頌歌  第4曲レシタティーヴォ  1727 ※2台のリュート使用、全編に渡り通奏低音にも用いる。
  • BWV995 組曲g-moll 1727~1731  1730頃(『バッハ辞典』)

◎ライプチヒ第Ⅱ期(1730~1735)  44~50歳

 市参事会との対立から教会音楽から遠ざかり学生のコレギウム・ムジクムの指揮など世俗音楽に力を入れる。ツィンマーマンのコーヒー店での、この団体の演奏会のため旧作をチェンバロ協奏曲に編曲する。転職を考えるが果たせず、ドレスデン宮廷作曲家の称号を得て市参事会に対抗する。1731年『クラヴィーア練習曲』第1部BWV825~830を出版。同年ドレスデンを訪問しハッセのデビュー作のオペラ(ヴァイスもテオルボで参加)を聴く

  • (BWV995 組曲g-moll  ~1731)  ※上記参考
  • BWV247 マルコ受難曲 1731 ※BWV198追悼頌歌より多くを転用しており、リュートの使用の可能性もあるが作品が散失したため確認はできない。          

◎ライプチヒ第Ⅲ期(1736~1750) 50~65歳

 市参事会との争いに加えて校長エルネスティとの対立やシャイベによるバッハ批判にもさらされ創作活動から遠ざかる。旧作の改編や集大成に力を注ぐ。晩年、音楽の捧げ物、フーガの技法、カノン風変奏曲などの特殊な作品を作曲する。1739年(54歳)にリュート奏者ヴァイス、クロプフガンスがバッハ家を訪問

  • BWV1006a組曲E-dur 1735~1740 ※1736/37頃(『バッハ辞典』)
  • BWV997 組曲c-moll 1740頃 ※1739頃(『バッハ辞典』)
  • BWV1000 フーガ g-moll 不明 ※原曲成立の1720以降(『バッハ辞典』)  ※BWV997と同時期の1740頃?またはBWV995と同時期の1730頃(私見)
  • BWV998 前奏曲、フーガとアレグロEs-dur 1740前半 ※1735頃(『バッハ辞典』)
  • BWV244 マタイ受難曲 1742頃上演 ※リュートパートをヴィオラ・ダ・ガンバに変更
  • BWV245 ヨハネ受難曲(第4稿)上演 1749 ※第19曲アリオーソのチェンバロパート譜作成  

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 このように整理してみると、バッハが生涯においてリュートと如何にかかわってきたかがはっきり浮かび上がってくる。

 まず、バッハの創作意欲が最も盛んなライプチヒ初期において、受難曲などの印象的な場面にリュートが効果的に用いられていることから、音楽表現方法としてバッハがリュートに対して興味を抱いていたことがはっきり判る。それを喚起させたきっかけは不明であるが、BWV198追悼頌歌では全曲を通じて2台のリュートが用いられていることからも、この当時バッハ周辺にはリュート奏者にこと欠かさなかったことを物語っている。また、この時期にBWV995の組曲の作曲されたことは常に興味深いものがある。この曲のファルケンハーゲンの筆と推定されるタブラチュア譜について『校訂報告』抄訳(『現代ギター』第238号)は「13コース・リュートに合わせるためという目的を含めた訂正が多く、典拠としての価値がない。」とすげないが、無伴奏チェロ組曲第5番を元にしたリュートとの相性が良いこの曲の成立の事情背景を知る上ではその考えはあてはまらない。少なくともリュートのためとの需要(注文)があったのは間違いないのだから…。事実、1731年の『クラヴィーア曲集』第1部の出版と関連して興味深い資料が残っている(後述紹介)。ちなみに、そして、晩年におけるヨハネ、マタイ両受難曲のリュートパートをヴィオラ・ダ・ガンバやチェンバロに置き換える改訂は、バッハの表現方法に求める創作態度意欲を推し量る意味において非常に興味深い。つまり、リュートに固執せず自分の欲するままに最上の音楽を求めて推敲を重ねていったのである。もっとも、その頃に周辺にリュートを演奏する者がいなかったという単純な推論も成り立つが…。

 バッハの身近にリュート奏者が存在したかどうかは、ライプチヒ以前の若い頃の作品を考える場合重要なことである。ケーテン宮廷ではヴァイスのような専属のリュート奏者を抱えていない。ただしケーテン宮廷では度々リュート奏者を招聘していたことが宮廷出納簿から判っている。例えば、1719年8月17日にデュッセルドルフの「リュート奏者」(氏名不詳)へ報酬が支払われている(白水社『バッハ叢書第5巻 ケーテンのバッハ』フリードリッヒ・スメント著 門倉一朗・小岸昭訳 P.43)

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 同じく、かつてバッハが暮らしたアイゼナッハやミュールハウゼン、ヴァイマールといった片田舎の町にも町楽師や旅のリュート奏者がリュートを奏していたであろう。しかし、彼らリュート奏者は自身の作品を演奏し、領主や町の住民を楽しませたのであってバッハ自身が、彼らに触発されてリュート曲を作曲したり、自らリュートを弾いた可能性は極めて低いと私は考える。せいぜい自身は、リュートの音を模したラウテンヴェルクまたはチェンバロでリュートの雰囲気を楽しんだと言うのが妥当なところであろう。故にBWV996及びBWV999の非リュート的な音形がめだつことの説明にもなる。(詳細は後日)

 それに対し、リュート曲の多くが作曲されるライプチヒ時代は事情が異なる。

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ライプチヒという大都市でのリュートを愛好者する市民、リュートに堪能な弟子や学生、バッハやヴァイスのリュートを製作した楽器職人ホフマンなどに囲まれた環境がライプチヒ第Ⅲ期の一連の独奏曲を生み出す土壌となったのである。リュートを嗜む弟子や学生としてはクレープスやシュトラウベが知られる(後者とバッハとの関係は不詳)。しかし、この時期の作品であるBWV997やBWV1000(この曲は1730年頃の可能性もある)をタブラチュア譜化したヴァイラウホの存在はクレープス以上に重要である。いずれにせよ彼らがバッハのリュート曲を演奏し、市民にも紹介した可能性は極めて高い。彼らとバッハの関係については次回あたりで述べたい。(繰り返し言うが、ヴァイラウホのタブラチュア譜を軽視し無視することは誠に由々しき行為なのである。)

 また、バッハのリュート曲はヴァイスの演奏に触発されて生まれたことは誰もが認めるところである。バッハは1717年以降、ドレスデンを度々訪れている。その際、当地で活躍していたヴァイスとも面識があったであろう。確実なところでは1731年に、バッハはドレスデンにて、ハッセの当地デビュー作のオペラ『クレオフィーデ』の通奏低音をテオルボで受け持つヴァイスの演奏に接している。そのオペラの終盤近くのアリアに、ハッセがヴァイスの腕を見込んで描いたと想像がつく華麗なテオルボソロパートがある。そのヴァイスの名人芸を聴いたはずのバッハが、帰郷してテオルボまたはリュートには特別の関心を示さなかったことは、ライプチヒ第Ⅱ期におけるリュート作品の欠如が証明している。ところが、1739年、逆にヴァイスがリュート奏者クロプフガンスを伴ってバッハ家訪問のためにライプチヒ訪れたことは非常に意義のあることであった。親密な音楽交流によってバッハ自らヴァイスのリュートに触発されたことは言うまでもないが、そこに同席したであろう弟子やヴァイラウホをはじめとするライプチヒのリュート愛好家、楽器職人ホフマンにも感動をあたえないはずがない。つまりライプチヒのバッハを取り巻く人々の熱意、嗜好がバッハのリュート曲を生み出す要因の一つとなったといえる。

 こうして振り返ると、ライプチヒ時代以前のリュート用とされた曲と、この時期の作品の関連性(発展性)は極めて薄いものであり、生涯にわたってバッハがリュートを意識していたわけでないことを改めて確認することができる。

 最後に、以下の晩年のバッハの特殊な作品

  • 『音楽の捧げ物』BWV1079(1747)
  • 『フーガの技法』BWV1080(1742~1746)
  • オルガン曲『カノン風変奏曲』BWV769(1747~8)

や、それに先立つ1739年に出版された、前奏曲とフーガBWV552にはさまれた21曲の様々なコラールBWV669~689と4つの2声のデュエットBWV802~805からなる『クラヴィーア曲集』第3部などと並べてみると、BWV998プレリュード、フーガとアレグロBWV997のフーガの特異な性格が浮かび上がってくる。このことについては個々の作品について述べる機会に譲りたい。

 まとまりがつかずやたら「後日に」とお茶を濁す藤兵衛であった。 

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手塚治虫、生誕80周年~今月の芸術新潮

遅蒔きながら今月号の『芸術新潮』を紹介
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何と手塚治虫(1928~1989)の特集
今年生誕80周年を記念してのこと。

改めて「マンガの神様」の偉大さに感激する。

子供の頃読みふけった彼のマンガが確か取っておいてあるはず…
休日を利用して物置を発掘…。

あったあった。
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小学生時代、読みふけった
光文社のカッパ・コミックス『鉄腕アトム』シリーズ
   同社の横山光輝『鉄人28号』シリーズも発見

 見つかった数冊(確かもっとあったはずなのに…weep)のうち、表紙が残っていたのがこれのみ。それほど飽かずに何度も読み耽っていたのだ。こうじて、夢の中でアトムになったこと数えきれず…。アトムになって気持ちよく空を飛んでいたが、パンツ一枚の自分の姿に恥じ入って街路樹の木陰に逃げ込んだ…というところで目が覚めた記憶が鮮明に残る。ちょっと大人になった?…暗示的な夢であった(笑い)。

  個人的には、写楽と和登さんの絶妙なコンビが古代の謎に挑む『三つ目がとおる』が好きである。なによりも小生、恥ずかしながら和登さんファンheart04。この特集でこのコンビの由来はシャーロック・ホームズとワトソンなのだということに今頃気づかされた。

創意と工夫と飽くなき探究心…手塚とバッハが何となく重なる。

理屈は抜きに、今夜は久しぶりに手塚作品に親しまんとする藤兵衛である。

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バッハとリュートあれこれ(10)~バッハとタブラチュア

 バッハは実際リュートを演奏したのか?…バッハのリュート曲を考える場合、おのずとわいてくる疑問である。

 リュートは、アンサンブルやFilippo Dalla Casaのフランス式アーチリュートのための曲集(18世紀後半)などに五線譜の使用例はあるが、独奏曲においてはタブラチュア譜で記され演奏されるのが通例である。

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F.D.Casa "Suonate di celebri auttori per l'arcileuto francese"

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同曲集より、Casa の肖像画およびフレンチ・アーチリュート

 彼の楽器や作曲スタイルやロココ様式の作風と、かなり特殊であり当のバッハが知るよしもなかろう。

 つまり、バッハが自ら演奏するためにドイツで普及した一般的なバロックリュートために作曲したのなら当然自筆のタブラチュア譜が残って然るべきである。また、少なくともリュートを嗜むことができたのなら、当時のリュート奏者の作品を演奏(研究)すべく彼らの作品のタブラチュア譜(出版譜または手稿譜)を所有しているはずである。残念ながらそれらのタブラチュア及びそれを示す資料や記録も伝わっていない。

参考:全作品解説辞典『バッハ辞典』
磯山雅/小林義武/鳴海史生
編集  東京書籍 
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P.439~「J.S.Bachの所蔵楽譜目録」                                                        Ⅰ.バッハの所蔵楽譜にふくまれていたことが資料的に立証できる作品 

 そこにはバッハが生涯に写譜または購入した大勢の作曲家の100曲以上の作品のリストが掲載されている。その中にはヴァイスのリュート組曲を原曲としたヴァイオリンとチェンバロのための組曲BWV1025が含まれる。

 たまたまそれらが未発見であると反論する向きもあろう。バッハ自身のものではないが、幸いにも
ファルケンハーゲンの筆と推定されるBWV995組曲ト短調Bwv995_t

ヴァイラウホによるBWV997パルティータハ短調
Bwv997_t

およびBWV1000フーガト短調
Bwv1000_t
のタブラチュア譜が現存している。

 これらは、五線譜による別稿(BWV995:自筆譜・チェロ版、WV997:鍵盤二段譜による複数の筆写譜、BWV1000:無伴奏ヴァイオリン版およびオルガン版)と比較研究されてきた。その結果、『校訂報告』をはじめ大概のリュート奏者や研究者は、音の変更が多いことから、別の資料(原典?)から彼ら筆記者によってタブラチュアに書き起された2次的資料であると結論付けてその価値を低く見ている。また、バッハ自身の手ではないという理由で端から無視する人々も少なくない。

 しかし、バッハ自身がタブラチュア譜を書き起こしたかということを考える場合、これらの他者の手になるタブラチュアの存在は重要である。もし、バッハ自身のオリジナルのタブラチュア譜が存在したのなら、演奏者はそれをそのまま利用するか忠実に写譜して利用すればよいのであって、わざわざ改編する必要性はないのである。要するに、これらのタブラチュア譜はオリジナルが存在しなかったことを無言で証明しているのである。ただ、バッハ自身がタブラチュア譜を書き起こす際にオリジナルに書き損じが生じたという可能性も無くはない。また、それがあまりにも拙かったため、筆記者の手直しが入った際に混乱が生じたとも考えられなくもないが…。

 結論を言えば、バッハ自らタブラチュア譜を書き起こした可能性はほとんどないと割り切るべきである

参考:『バッハ辞典』門倉一朗監修 音楽之友社

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 P.127「記譜法」の項において、「リュート・タブラチュアー(指板上の位置による文字盤)は全く使われず、リュート曲はすべて鍵盤楽器用の2段譜表で書かれている。(江端伸昭)」と一刀両断である。

 バッハが「リュートを所有していた」ことや、弟子クレープスなどの能力証明書に「リュート演奏に秀でているとの太鼓判を押した」との理由でバッハはリュートを弾けたと述べている論者も見受けられるが、あまりにも短絡的である。楽器を所有しているから演奏ができるというわけではない。私の例をあげるのもおこがましいが、知人からもらったり、物珍しさの余り手にしたものの持て余しそのままお蔵入りとなった楽器は恥ずかしながら数知れない。(一例を紹介すると、オーボエ…スケールが何とかこなせる頃にはリード削りに辟易し楽器庫の肥やしになりかける。幸か不幸か、近所の女子高生が借り受けブラスバンドで活躍中…新たな?古楽器(または新車)の購入資金にと売り飛ばしたいのだが、気に入られてなかなか返してくれないsweat01…それでも周囲には「自分はオーボエが吹けると吹聴しているオーボエ吹きならぬ大ぼら吹きの藤兵衛…coldsweats01) それに、ある楽器に堪能であると証明するのに、その楽器のプロである必要はなくカントールや宮廷楽長といった肩書があればそれで十分なのである。ましてやオルガニスト、宮廷作曲家、教会カントール及び教師、そして善良なる父親(再婚、子育て!)などの多忙で勤勉な人生を歩んだバッハが、「人生の半分を調弦に費やす」ようなリュート(しかも13コースバロックリュート)をマスターしたとは現実離れした話である。完璧主義のバッハの粘着気質からして、多くの楽器を究めたのだと言わればそれまでだが(笑い)。おそれ多くもかしこくもバッハにおかされましてはすべての楽器に堪能であらせられます…という滑稽なほどの妄信が眼を曇らせている。

 バッハは、あくまでも普通の宮廷または教会音楽作曲家なのであり、リュートに関して専門的な知識や技量は持っていないが、何らかのインスピレーションまたは機会や注文を受け五線譜で「リュートのために」と作曲または編曲し、タブラチュア譜の作成つまり演奏はリュートを弾く者の手に委ねたのである。

 BWV995は「(出版業者)シュースター氏のために」という献辞から出版を意図したもの(出版された形跡はない)であることを窺い知ることができるが、ヴァイラウホによるタブラチュアは、彼自身が弾くためなのか、出版を含め第三者に依頼されたものなのか、その伝承の由来は判っていない。少なくともバッハが自分でリュートを弾くためにヴァイラウホにタブラチュアに起させた可能性はまずないだろう。なぜなら、BWV997における音の変更はまだしも、冒頭の「Prelude」を「Fantasia」とした題名の変更は僣越な行為と言えるからだ。裏返せばそのことは、ヴァイラウホの私家版との可能性を裏付けるか、フーガやジーグのドゥーブルを省略した際に「バッハの示唆があってのこと」との推測も成り立たせる。そして、いずれにせよ、ヴァイラウホがリュートでバッハにこれらの曲を自身で演奏披露した可能性は高いだろう。

 そのヴァイラウホのタブラチュア譜を「バッハ自身の手ではない」という理由で端から無視する姿勢に対して、私は強く疑問を感じている。完結したリュート作品であるヴァイスのタブラチュアを自分流に改編して演奏することは冒瀆行為に他ならない。一方、タブラチュア譜が残っていないバッハの作品はリュート曲としては不完全なものであり、現代のリュート奏者は、自分自身で実用譜としてのタブラチュアを起すという一種の編曲という作業を行わなければならないのである。それは、バッハをリュートで演奏する者にとっては避けて通れない宿命なのである。たとえ五線譜のまま弾いても、リュートは鍵盤楽器と違って使用する弦やポジション、スラーの使用などによって表現するニュアンスが劇的に変化する楽器なので、ヴァイスなどのタブラチュア譜のように作曲者の意図する本質には決して迫れないのである。それ故、バッハの意図を汲んだはずの当時のリュート奏者たちが残した資料にもっと謙虚に接し敬意をはらわなければバッハには近づけないと思う。彼らの残したタブラチュアを徹底的に研究批評して「(のだめheart01千明君のように)俺様のタブラチュアの方が上手いだろう」との気概を示すことこそ、リュートを愛しバッハを敬愛する者の使命であろう。

 「バッハはリュート音楽の最高峰」とのうたい文句が一人歩きして、先達のリュート奏者達の功績がないがしろにされるのが忍びない藤兵衛である。         

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秋深し、自分は何をする人ぞ?

  先々週の土曜日の休日出勤のことである。自分の机の斜め前のたまたま出勤していた同僚(先輩)の存在もすっかり忘れる程、期日のせまった大量の書類を片づけるべく仕事に没頭していた。
 ……「私もう戻りませんから…。」との彼の言葉で我にかえるが、「お疲れさま」と言葉をかけたのは彼の後ろ姿にだった。それが私が彼を見た最後の姿(職場仲間でもおそらく私が最後)であった。その晩、彼が急死したとの連絡が回ってきた。彼のその言葉はまさしく今生の別れの言葉となったのだ。呆然自失…。自分が次に電話を回すのが、彼の一番の話し相手の同僚であったのがつらかった。

 休み明けの出勤日、誰もが沈んでどうして良いのかわからない中、転勤前の職場で同僚(しかも高校の同級生)を同じように失った経験のある私は、彼の机にすすんで花を手向け冥福を祈った。

 ここ一週間は、ブログを書いたり(そのためか内容が荒れ気味)、楽器を弾いたりと気を紛らわそうとしたが、例の仕事を何とか仕上げ終える(幾つかのミスを上司から指摘される)も束の間、はたまた週末土曜日も出勤(自分としては不本意な職務内容)に駆りだされ精根尽き果て楽しみに(奥清秀さんのリュート…あと誰かのガンバも密かに…していた弦楽器フェア行けずじまいになってしまった。

 気持ちを切り換えようと休日出勤の振り替え代休の今日、国営武蔵丘陵森林公園まで自転車散歩bicycleに繰り出した。

 

 冬の先触れのような逆風と、通勤の方々の自動車行き交う中、開園10分前にたどりつく。
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 早速、自転車専用道路に分け入る。この愛車S17では今夏以来2度目の訪問である。その時は8月末の同じく休日出勤の代休。セミの声に囲まれていたのが嘘のよう…。P1000452
 
今回は、パキパキとドングリの割れる音にむかえられる。いたたまれなく立ち止まるが、詮方ないので意を決して進み続ける。何とか普通に走れることを確認し漸く周りの景色に親しむ。紅葉にはまだはやいが、雰囲気満点…。
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あたりに人影無い分、秋の気分をより満喫。「木漏れ日に、…」と今度は和歌を詠みたくなるが、ドングリにタイヤを取られないようにと気がゆかない。
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さすがに国営公園、ススキも手入れが行き届く(笑い)

 起伏が程よくあり、貸し切り状態で歩行者にも、忌ま忌ましい犬にも(!)邪魔されず段々と調子に乗りだし…ひたすら走る!走る!

おっと…下り坂でころり転げるうさぎの絵…
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 気を引き締め、辺りを注意深く見回すと看板のバリエーションの多さに気がつく。
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 あちらこちらにとても楽しい絵柄。子供が喜びそう。そういえば小学生の団体が来ていたが…。今だ遭遇せず…きっと、どこかの広場で遊んでいるのだろう。

 

とかするうちに1時間ほどで周回コースも終わりに近づく。沼のほとりの木々が雪が降ったように白いのに気がつく…。
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 よく見ると岸辺に鵜の姿が…。何と彼らの糞の仕業であった。昔、ニュースで鵜の被害にあった上野の不忍池のことを思い出したが実際凄まじいものだ。

出口付近で本日極めつけの傑作看板に遭遇…プッsweat01!とおもわず吹き出すP1000518

    デジカメPanasonic LUMIX FX37が今日も活躍

 結局最後まで、コースを独り占めhappy01…ささやかながら秋の山路を満喫して家路につく。


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 今夜はお土産のドングリを肴(もちろん見るだけdelicious)にヴァイスにいそしまん。

森に元気をもらって明日から心機一転出直せそうな藤兵衛である。

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バッハとリュートあれこれ(9)~スコラダトゥーラの功罪その2

 バッハのリュート曲にスコラダトゥーラ(変則調弦)を用いる説に対して以前から感じていた大きな疑問がある。(ここでいうスコラダトゥーラとは6コース以上のニ短調調弦を著しく逸脱する変則調弦をいう。6コースを半音下げる調弦は許容範囲とする。)なぜなら、当時のバロックリュートにおけるスコラダトゥーラの実際例を踏まえて論証しているとはとても思えないからである。少なくとも、巨匠ヴァイスの主要な作品集であるロンドン及びドレスデンの手稿譜にも見いだせないこの技法が、バッハ自身や彼の周辺で普及していたかを証明する必要があると思う。当時のバロックリュートにおけるスコラダトゥーラに言及した資料文献もあるとは聞くが、後期のヴァイス、ファルケンハーゲン、ハーゲンなどのリュート作品においては一般的な用法でないことは明白な事実であり、バッハのリュート曲にスコラダトゥーラの使用を主張するのはとても無理なことである。この「バロックリュートの様式や語法を無視してもバッハのリュート曲が弾ければかまわない」というご都合主義的姿勢は、古楽研究の基本から完全に逸脱した行為なのである。私の認識不足としたら話は別であるが…。

 仮にバッハがスコラダトゥーラを駆使するような技巧(知識)を会得した演奏家(作曲家)ならば、ヴァイスなどの一般の(???)リュート奏者が作曲(演奏)しない調性や音型(様式)の超絶的な作品を多数のこしていたであろう。しかし、現実には少数の五線譜を主体とした作品と他者によるタブラチュア譜しか残されていない。その現存する他者によるタブラチュアにもスコラダトゥーラは使用されていない。仮にバッハはタブラチュア譜に頼らず五線譜にてリュートを弾けた(タブラチュア譜では弾けなかった)としよう。(バロックリュートを初めて手にした頃、バッハやヴァイスの曲を五線譜で弾いていたリュート奏者としては素人丸出しだった私がその良い例である。)しかも、スコラダトゥーラを用いる技量もあったとしよう(…改めて言うがもしそうだったらリュートの歴史は今とはちがうものになっていたと思う…笑い)。それならばバッハは五線譜でスコラダトゥーラを用いてホ長調のBWV1006aをリュートで易々と演奏したこと請けあいである。ところがそうは簡単に問屋は卸さない。

   その理屈で行くと現存している自筆のBWV1006aではその仮説は成り立たないのである。つまり自筆譜は通常の記譜法で書かれており、スコラダトゥーラに対応していないのである。バッハのBWV995に対応する無伴奏チェロ組曲第5番のスコラダトゥーラの例をあげてみると一目瞭然である。
Bwv1011_s
BWV1011無伴奏チェロ組曲第5番Prelude原曲~ベーレンライターBA5215

Bwv1011_f

同アンナ・マグダレーナによる筆写譜ファクシミリー

冒頭の調弦の指示にあるように1弦を1音下げるスコラダトゥーラが用いられている。

Bwv1011_a

同曲を通常調弦であらわしたいわゆる普通の楽譜版
※印以下の点線部分がスコラダトゥーラが適応されている部分。

 一弦を一音下げることにより、一弦を弾く音符は一音高く記譜され、その音符(通常の押弦)で実音が奏でられるよう工夫がなされている。ただし、このチェロ版のように最高音弦のみの場合有効であって、 『校訂報告』で紹介されているギーズベルトような複数の弦に渡る場合は、混乱の極みとなり何らかの工夫(例:使用弦をいちいち明記する)を施さなければ実用に耐えなくなる。つまりリュートやギターの場合はタブラチュア譜において最も効果的に用いられる手法なのである。

例:F.Campion のバロックギターの例
Campion

 結論をいえば、バッハ自身がスコラダトゥーラを用いた証拠がない限りバロックリュートでスコラダトゥーラを用いてバッハを弾くべきではない。それはリュートの歴史的様式を冒瀆する行為であって少なくとも伝統的様式を尊重するリュート奏者のなすべき行為ではない。 個人的にはギター奏者としてバッハのリュート曲を究めんとしたイエペスの業績や、バッハのリュート曲を容易に弾きたいというリュート愛好家の欲求を否定するものではない。しかし、リュートの様式を尊重する研究者(プロの演奏者)の立場ならば、バロックリュートを基準にバッハの作品を当てはめて考察していく姿勢に立ち返るべきであり、バッハの曲にリュートを無理やり当てはめてリュートの様式や楽器そのものを改竄してはならないと思う。バッハのリュートについて語るには普遍的なニ短調調弦をもとにしたタブラチュア譜化という一種の編曲作業を経ないと始まらない。すなわち真の意味での実用譜が必要なのである。

それにしても現存するタブラチュア譜の資料をバッハの手ではないとさげすむ風潮を悲しく思う藤兵衛である。

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