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バッハとリュートあれこれ(12)~ヴァイラウホの周辺

 バッハのリュート作品BWV997パルティータハ短調およびBWV1000フーガト短調のタブラチュア譜を残しているヴァイラウフ(ヴァイラウホという表記もある)とは何者なのだろう。手元にある文献で調べてみた。  

ヨハン・クリスティアン・ヴァイラウフ(Johann Christian Weyrauch 1694~1771)

ライプチィヒ大学卒業。同地の新教会オルガニストに志願するが果たせず、市の公証人となる。 『バッハ辞典』東京書籍 p.471

 …と、引用元の記述はそっけない。

 イメージをつくる上で、彼はバッハより11歳年下であるということから確認していこう。バッハがライプチヒのトーマス・カントルに就任した1723年において、バッハ38歳、ヴァイラウフ27歳ということになる。そこでまず判るのは、ヴァイラウフの新教会(マタイ教会)オルガニスト就任の件についてはバッハの与り知らぬことだったのであろう。

 ヴァイラウフの職業である公証人とは財産に関連する様々な手続き(相続・譲渡・登録・商取引・契約)に必要となる法的書類の下書きや保管・証明を行う専門家である。と言ってもある程度の知識があれば容易になれる職業ということで、ライプチヒのような大都市では数多く存在し、手腕次第で富と社会的地位を築けたらしい。

 少なくとも、彼はオルガニストを志願したからには音楽の素養もかなりあったことがうかがえる。           

 その彼が、どのように音楽を学び、リュートをおぼえ、バッハと出会ったのだろうか。興味深い資料が伝わっている。

 ポーランドの自治都市ダンツィヒ(現グダニスク)に住むルイーゼー・アーデルグンデ・ヴィクトーリエ・クルムスという音楽好きの女性が将来彼女の結婚相手となるライプチヒ在住のヨーハン・クリストフ・ゴットシェートにあてた1732年5月30日付けの書簡である。

「お送りくださいましたバッハのクラヴィーアのための作品と、ヴァイラウフのリュートのための作品、どちらもその美しさに劣らず骨の折れるものばかりでございます。十回も弾きましたのに、こういうものが相手ではいつまでたっても自分が初心者みたいに思えます。この両大家のものでしたら、こうしたカプリッチョ以外のもののほうが、私には気に入っております。これらの作品には測り知れないむずかしさがあります。」『バッハ叢書』第10巻バッハ資料集 白水社 P.110 

 これによると、1732年のヴァイラウフ36歳の時にはすでにリュートの作品を作曲していることがわかる。残念ながら、その他の作品も現存していないようであり、彼の作品の実態はわからない。ちなみに文中のバッハの作品とは、この書簡の書かれた前年の1731年にライプチヒで出版された六曲のパルティータ(BWV825~830)から成る『クラヴィーア練習曲集 第一部』のことであることは間違いない。最後のほうに紹介されているカプリッチョ
Capri
は、同曲集第2番ハ短調BWV825の最終楽章と思われる。確かに10度の跳躍が主題に用いられている。この曲集は当時、ライプチヒでは画期的な作品として話題となっていたらしい。ただし、文中にある通り、アマチュアには手に負えない 程技巧的であったので出版元が売れ残りを持て余したという。この手紙の主のルイーゼは音楽についてかなり素養があり彼女の人脈から思わぬバッハとの繋がりが浮かび上がってくる。(このことについては後述)その彼女が結婚してライプチヒで一緒に暮らすことになる手紙の相手
ヨーハン・クリストフ・ゴットシェート…
Gottsched

Johann Christoph Gottsched 1700~1766

 彼はヴァイラウフと同じライプチヒ大学に学び、この書簡の数年前の1730年よりライプチヒ大学の詩学教授となり、劇作家、文芸理論家としてライプチヒでは著名な文化人である。ヴァイラウフより6歳年下の後輩にあたる。そして、なによりも彼は1727年に演奏されたリュートが使用されたバッハのBWV198追悼頌歌の作詩者でもある。この曲の上演に際して、ゴットシェートを通じてバッハはヴァイラウフと知り合う機会を得たという憶測もなりたつ。その時用いられた2棹のリュートの一つをヴァイラウフが受け持ったと考えられ無くもない。

 その事は、ゴットシェートが音楽好きの恋人のルイーゼにバッハとヴァイラウフの二人の作品を送っていることからも推測できる。ルイーゼの「この両大家のものでしたら」という言葉からもゴットシェートが(彼女の気を引こうとして)ライプチヒで選りすぐりの音楽家として二人を紹介していることが読みとれる。

 ただ、ゴットシェート(及び彼の妻ルイーゼ、多分ヴァイラウフも含めた彼のサークル)とバッハの関係はあまり親密ではない。バッハが彼の詩をもとに作曲した例は1725年の散逸した結婚カンターター(番号無し)および、年月をおいた1738年の同じく散逸したカンタータBWV Anh.13などしか知られていないからもわかる。

 また、ヴァイラウフの記録としては、「1743年、バッハがヴァイラウフの子供 J.S.ヴァイラウフの代父を務めた」(『バッハ辞典』東京書籍P.567)と、この頃には、かなり親密な関係になっている。(代父とは出生した赤子の洗礼の儀式にたちあう人物であり、いわば結婚式の仲人と同じように子供の両親とって家庭的にも社会的にも恩人として尊敬すべき存在といえる。)

 それらのことからヴァイラウフのBWV997のタブラチュアの成立が1740年頃であるという時期に着目するならば、ゴットシェートの詩を1738年のカンタータに用いたことにより、ヴァイラウフと久しぶりに交際が再開したことによるものとも考えられる。同時に彼らと疎遠な期間はバッハのリュート曲の空白の期間でもある。もし、ヴァイラウフとの交際がつづいていたならばこの期間にもっとリュート作品が生まれているはずだ。改めてこのように整理すると楽譜のすかし模様から1727~31年の間に無伴奏チェロ組曲第5番を編曲したとされるBWV995ト短調組曲の存在が非常に気になる。また、後年のヴァイラウフの一連のタブラチュアの残る作品は、バッハが彼に献呈したものかも知れない。あるいは、バッハ家を訪問したヴァイスに、バッハがヴァイラウフを紹介した可能性もある。もしかしたらヴァイスのためタブラチュアにおこしたとも考えてもおかしくはない。これが縁となってヴァイラウフとバッハは親密な交際を続け、1743年、ヴァイラウホ47歳の時、何番目かの息子の代父を依頼したと考えられる。息子に命名された"J.S."が、"Johan Sebastian"だとしたら、ヴァイラウフとバッハの関係はかなり強いといえる。バッハのリュート作品を考える上で彼の存在を無視することはできない。

 自分で調べられたのはここまでだが、彼に関してもっと知りたいと思う。彼に関する研究論文もきっと出ているのだろう。

   さぼりのつけがたまり持て余し気味の藤兵衛である

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