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バッハとリュートあれこれ(11)~バッハはいつリュート作品を作曲したのか?

 バッハのリュート作品はどのようにして生まれたかを考える場合、作曲(編曲)された年代を整理しておく必要がある。『バッハ辞典』磯山雅/小林義武/鳴海史生編集 (東京書籍)などを参考に自分なりに以下にまとめてみた。成立年は『校訂報告』をもとに『バッハ辞典』の説を併記する。

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◎ヴァイマール時代(1708~ 1717) 23~32歳

 若きオルガニスト、宮廷音楽家として次第に円熟味をみせる時代。オルガン、チェンバロ曲、無伴奏ヴァイオリン曲の一部など器楽曲の他、本格的にカンタータを作曲しだす。

  • BWV996  組曲e-moll 1710~1717 ※1712頃(『バッハ辞典』)

◎ケーテン時代(1717~1723) 32~38歳

 宮廷楽長として、ブランデンブルク協奏曲、インヴェンション、平均律クラヴィーア曲集第1巻、無伴奏ヴァイオリン曲などの代表的な器楽曲の名曲を生み出す。1717年にドレスデンを初訪問

  • BWV999前奏曲   c-moll 時期特定不可能  ※1720頃、ケーテン?(『バッハ辞典』)        

◎ライプチヒ時代第Ⅰ期(1723~1729) 38~44歳

 トーマス・カントルとしてカンタータ、受難曲など教会音楽作曲に精力を注ぐ。また聖トーマス教会附属学校教師としての職務にも追われる。職務や待遇をめぐり市参事会との衝突が次第に激しくなる。

  • BWV245 ヨハネ受難曲初稿 1724  第19曲アリオーソ ※翌年改訂リュートの無い別の曲に差し換え→ 1730(第3稿)で復活
  • BWV244b マタイ受難曲初稿 1727(29) 第56曲レシタティーボと第57曲アリア
  • BWV198 追悼頌歌  第4曲レシタティーヴォ  1727 ※2台のリュート使用、全編に渡り通奏低音にも用いる。
  • BWV995 組曲g-moll 1727~1731  1730頃(『バッハ辞典』)

◎ライプチヒ第Ⅱ期(1730~1735)  44~50歳

 市参事会との対立から教会音楽から遠ざかり学生のコレギウム・ムジクムの指揮など世俗音楽に力を入れる。ツィンマーマンのコーヒー店での、この団体の演奏会のため旧作をチェンバロ協奏曲に編曲する。転職を考えるが果たせず、ドレスデン宮廷作曲家の称号を得て市参事会に対抗する。1731年『クラヴィーア練習曲』第1部BWV825~830を出版。同年ドレスデンを訪問しハッセのデビュー作のオペラ(ヴァイスもテオルボで参加)を聴く

  • (BWV995 組曲g-moll  ~1731)  ※上記参考
  • BWV247 マルコ受難曲 1731 ※BWV198追悼頌歌より多くを転用しており、リュートの使用の可能性もあるが作品が散失したため確認はできない。          

◎ライプチヒ第Ⅲ期(1736~1750) 50~65歳

 市参事会との争いに加えて校長エルネスティとの対立やシャイベによるバッハ批判にもさらされ創作活動から遠ざかる。旧作の改編や集大成に力を注ぐ。晩年、音楽の捧げ物、フーガの技法、カノン風変奏曲などの特殊な作品を作曲する。1739年(54歳)にリュート奏者ヴァイス、クロプフガンスがバッハ家を訪問

  • BWV1006a組曲E-dur 1735~1740 ※1736/37頃(『バッハ辞典』)
  • BWV997 組曲c-moll 1740頃 ※1739頃(『バッハ辞典』)
  • BWV1000 フーガ g-moll 不明 ※原曲成立の1720以降(『バッハ辞典』)  ※BWV997と同時期の1740頃?またはBWV995と同時期の1730頃(私見)
  • BWV998 前奏曲、フーガとアレグロEs-dur 1740前半 ※1735頃(『バッハ辞典』)
  • BWV244 マタイ受難曲 1742頃上演 ※リュートパートをヴィオラ・ダ・ガンバに変更
  • BWV245 ヨハネ受難曲(第4稿)上演 1749 ※第19曲アリオーソのチェンバロパート譜作成  

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 このように整理してみると、バッハが生涯においてリュートと如何にかかわってきたかがはっきり浮かび上がってくる。

 まず、バッハの創作意欲が最も盛んなライプチヒ初期において、受難曲などの印象的な場面にリュートが効果的に用いられていることから、音楽表現方法としてバッハがリュートに対して興味を抱いていたことがはっきり判る。それを喚起させたきっかけは不明であるが、BWV198追悼頌歌では全曲を通じて2台のリュートが用いられていることからも、この当時バッハ周辺にはリュート奏者にこと欠かさなかったことを物語っている。また、この時期にBWV995の組曲の作曲されたことは常に興味深いものがある。この曲のファルケンハーゲンの筆と推定されるタブラチュア譜について『校訂報告』抄訳(『現代ギター』第238号)は「13コース・リュートに合わせるためという目的を含めた訂正が多く、典拠としての価値がない。」とすげないが、無伴奏チェロ組曲第5番を元にしたリュートとの相性が良いこの曲の成立の事情背景を知る上ではその考えはあてはまらない。少なくともリュートのためとの需要(注文)があったのは間違いないのだから…。事実、1731年の『クラヴィーア曲集』第1部の出版と関連して興味深い資料が残っている(後述紹介)。ちなみに、そして、晩年におけるヨハネ、マタイ両受難曲のリュートパートをヴィオラ・ダ・ガンバやチェンバロに置き換える改訂は、バッハの表現方法に求める創作態度意欲を推し量る意味において非常に興味深い。つまり、リュートに固執せず自分の欲するままに最上の音楽を求めて推敲を重ねていったのである。もっとも、その頃に周辺にリュートを演奏する者がいなかったという単純な推論も成り立つが…。

 バッハの身近にリュート奏者が存在したかどうかは、ライプチヒ以前の若い頃の作品を考える場合重要なことである。ケーテン宮廷ではヴァイスのような専属のリュート奏者を抱えていない。ただしケーテン宮廷では度々リュート奏者を招聘していたことが宮廷出納簿から判っている。例えば、1719年8月17日にデュッセルドルフの「リュート奏者」(氏名不詳)へ報酬が支払われている(白水社『バッハ叢書第5巻 ケーテンのバッハ』フリードリッヒ・スメント著 門倉一朗・小岸昭訳 P.43)

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 同じく、かつてバッハが暮らしたアイゼナッハやミュールハウゼン、ヴァイマールといった片田舎の町にも町楽師や旅のリュート奏者がリュートを奏していたであろう。しかし、彼らリュート奏者は自身の作品を演奏し、領主や町の住民を楽しませたのであってバッハ自身が、彼らに触発されてリュート曲を作曲したり、自らリュートを弾いた可能性は極めて低いと私は考える。せいぜい自身は、リュートの音を模したラウテンヴェルクまたはチェンバロでリュートの雰囲気を楽しんだと言うのが妥当なところであろう。故にBWV996及びBWV999の非リュート的な音形がめだつことの説明にもなる。(詳細は後日)

 それに対し、リュート曲の多くが作曲されるライプチヒ時代は事情が異なる。

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ライプチヒという大都市でのリュートを愛好者する市民、リュートに堪能な弟子や学生、バッハやヴァイスのリュートを製作した楽器職人ホフマンなどに囲まれた環境がライプチヒ第Ⅲ期の一連の独奏曲を生み出す土壌となったのである。リュートを嗜む弟子や学生としてはクレープスやシュトラウベが知られる(後者とバッハとの関係は不詳)。しかし、この時期の作品であるBWV997やBWV1000(この曲は1730年頃の可能性もある)をタブラチュア譜化したヴァイラウホの存在はクレープス以上に重要である。いずれにせよ彼らがバッハのリュート曲を演奏し、市民にも紹介した可能性は極めて高い。彼らとバッハの関係については次回あたりで述べたい。(繰り返し言うが、ヴァイラウホのタブラチュア譜を軽視し無視することは誠に由々しき行為なのである。)

 また、バッハのリュート曲はヴァイスの演奏に触発されて生まれたことは誰もが認めるところである。バッハは1717年以降、ドレスデンを度々訪れている。その際、当地で活躍していたヴァイスとも面識があったであろう。確実なところでは1731年に、バッハはドレスデンにて、ハッセの当地デビュー作のオペラ『クレオフィーデ』の通奏低音をテオルボで受け持つヴァイスの演奏に接している。そのオペラの終盤近くのアリアに、ハッセがヴァイスの腕を見込んで描いたと想像がつく華麗なテオルボソロパートがある。そのヴァイスの名人芸を聴いたはずのバッハが、帰郷してテオルボまたはリュートには特別の関心を示さなかったことは、ライプチヒ第Ⅱ期におけるリュート作品の欠如が証明している。ところが、1739年、逆にヴァイスがリュート奏者クロプフガンスを伴ってバッハ家訪問のためにライプチヒ訪れたことは非常に意義のあることであった。親密な音楽交流によってバッハ自らヴァイスのリュートに触発されたことは言うまでもないが、そこに同席したであろう弟子やヴァイラウホをはじめとするライプチヒのリュート愛好家、楽器職人ホフマンにも感動をあたえないはずがない。つまりライプチヒのバッハを取り巻く人々の熱意、嗜好がバッハのリュート曲を生み出す要因の一つとなったといえる。

 こうして振り返ると、ライプチヒ時代以前のリュート用とされた曲と、この時期の作品の関連性(発展性)は極めて薄いものであり、生涯にわたってバッハがリュートを意識していたわけでないことを改めて確認することができる。

 最後に、以下の晩年のバッハの特殊な作品

  • 『音楽の捧げ物』BWV1079(1747)
  • 『フーガの技法』BWV1080(1742~1746)
  • オルガン曲『カノン風変奏曲』BWV769(1747~8)

や、それに先立つ1739年に出版された、前奏曲とフーガBWV552にはさまれた21曲の様々なコラールBWV669~689と4つの2声のデュエットBWV802~805からなる『クラヴィーア曲集』第3部などと並べてみると、BWV998プレリュード、フーガとアレグロBWV997のフーガの特異な性格が浮かび上がってくる。このことについては個々の作品について述べる機会に譲りたい。

 まとまりがつかずやたら「後日に」とお茶を濁す藤兵衛であった。 

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