バッハのリュート作品を語るにおいてクラシック(モダン)ギターとの関係を避けて通ることはできない。モダンギターで19世紀以前の音楽を演奏することに興味を失った身なので、独断と偏見にまみれたとりとめのない雑感を述べさせていただく。
『新バッハ全集』リュート曲の巻が発刊された1976年、わが国で次の楽譜が出版された。
ゼンオン・ギター・ライブラリー 『演奏会用バッハ名曲選集』
阿部保夫編 全音楽譜出版社1976年
これ以前にセゴビア、ブリームなどの著名なギタリストらは「ブリューガー版」をもとにバッハ のリュート曲の一部を編曲しレパートリーにし演奏録音し、一部を出版している。国内ではセゴビアやブリームのものが以下のシリーズで知られていた。
『セゴビア/クラシック・アルバム』音楽之友社1970~
『ジュリアン・ブリームギター選集』全音楽譜出版社1967~
また、ジョン・ウィリアムスやイエペス(ギターおよびリュート)による全曲録音もすでに1970年代前半に達成されていが、全集として楽譜が出版されたかは定かでない。
冒頭の全音版は、それまで親しまれてきたバッハの無伴奏ヴァイオリンやチェロそしてリュート曲のギター版を集大成(再編集?編曲?)した充実した内容となっている。
曲目は以下の通り。
- 無伴奏Vnパルティータ第1番(BWV1002)からサラバンド、ブーレ(各ドゥーブル付き)
- 無伴奏Vnソナタ第1番(BWV1001)からフーガ
- 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番(BWV1004)からシャコンヌ
- リュートのためのプレリュード(BWV999)※二短調
- プレリュード-フーガ-アレグロ(BWV998)※ニ長調
- リュート組曲第1番(BWV996)※ホ短調
- リュート組曲第2番(BWV997)※イ短調
- リュート組曲第3番(BWV995)※イ短調
- リュート組曲第4番(BWV1006a)※ホ長調
- 無伴奏Vc組曲第1番(BWV1007)からプレリュード
- 無伴奏Vc組曲第3曲(BWV1009)全曲
- 無伴奏Vc組曲第6曲(BWV1012)からガボット
ご覧の通り、バッハのリュート曲ほぼ全曲網羅されるという快挙である。
ただし、BWV1000のフーガの代わりにタレガ編曲の無伴奏ヴァイオリン版を掲載しているが…基本的に「ブリューガー版」に準拠した調性を採用し、中途半端であったBWV999はニ短調、BWV998はニ長調(アレグロを付した完全版)とセゴビア版を踏襲し形を整えられ、まさにギター版のスタンダード的存在となった。
参考:ジョンの録音ではBWV998~ホ長調、BWV999~ハ短調 BWV1000~ト短調となっている。
また、 1971年に石月一匡氏がBWV1000フーガイ短調編曲版を
『バロックギター名曲選集№Ⅱ』共同音楽出版社にて発表している。
ただ、残念なことに編曲に関する資料検証(採用報告)がなされていない。当時としては仕方のないことであくまでも「ギター実用譜」と割り切ってしまいばそれまでのことだが、「どこそこの音はジョンやブリームの録音とちがうぞ…」などと善良なギター愛好者を悩ませたのは言うまでもない。思い募って「ブリューガー版」または『新バッハ全集』さらには原典ファクシミリを手にとって徹底的に比較しようと臨まんとする者も少なからずいた。…ここも一人いるけれども(笑い)。
それから5年ほどして待望の救世主が降臨する。
『名曲演奏のPARTⅢ バッハ/リュート作品の全て』
現代ギター臨時増刊(1981)
同『別冊楽譜実用版』80頁/全7曲収録
何といっても全曲に渡り主要原典ファクシミリが掲載されたことが衝撃であった。 (資料の公開を拒み隠匿する某大学所蔵BWV998も古いファクシミリを引用して掲載)
各曲の調性も全音版を踏襲し、組曲のナンバリングもギター界の伝統に則って生かしてある。BWV1000もリュート版をもとに編曲されており、各曲ごとに編曲者(小山勝、浜田光彦、佐野健二各氏)の奏法解説がなされ、以下のような錚々たる面々による解説記事が満載されている。
- バッハとリュート~高野紀子
- バッハに至る器楽曲の流れ小川伊作
- バッハ・リュート作品の装飾法荒川孝一
- 作品分析 バッハの位置づけとリュート組曲を中心に二橋潤一
- 作品分析 フーガイ短調BWV1000原博
- 参考レコード案内浜田滋郎
- バロック・リュートトタブラチュア左近径介
前述の全音版を補完し、まさしくギター版バッハリュート曲の決定版となったといえる。
ただし、古楽やバロック音楽一般からすると物足りなさを禁じえない。
国立音楽大学音楽研究所でバロック音楽研究に従事された高野紀子氏(2003年同大学長就任)の「バッハのリュート作品をめぐる疑問」の冒頭の言葉がそれを代弁している。
「J.S.バッハは,一体リュートのための作品を作曲したのだろうか。そのうち何曲が現存しているのだろうか。また,作曲の動機は何だったのだろうか。リュート作品を残したとして,彼は何ゆえにタブラチュアを使わなかったのだろうか。バッハ自身は,果してリュートを演奏したのだろうか。バッハとリュート作品に関するこうした疑問は,旧バッハ全集刊行当時(1851-1899)から絶えず投げかけられていたのだった。ようやく1976年になって出版された新バッハ全集第Ⅴ作品群(クラヴィーアおよびリュート作品)第10巻のなかに7曲のリュート作品が収録されていて,ひとまず解答を得たかの感があるが,そうは言っても,上記の問いがすべて解決されたわけではなさそうである。ずいぶん頼りなげな言い方だが,それほど問題は複雑なのである。弁解じみたことを言わせていただくならば,新全集のリュート作品の編者トマス・コールハーゼThomas Kohlhaseによる校訂報告も未出版の現在,筆者は従来の研究をふまえて,7曲を紹介するほかはない。…」
同じく、この書の中の各曲の奏法解説において浜田、小山氏がほんのわずか原典資料に触れているだけである。せっかくのバロック音楽やタブラチュアに関する解説のわずかな紙面ではギター演奏のほんの参考用程度しか語られておらず、かたや膨大な頁を割いて理路整然と雄弁に語る作品分析は古楽という視点からは明らかにピントはずれの肩すかしの内容となっている。個人的には冒頭の高野紀子氏の解説が一番有意義であった。
待望のBWV1000のフーガの編曲もいきなり冒頭(3小節後半から4小節前半にかけて最低音声部の主題提示)でギターの限界を露呈してしまうものとなっている。
先の石月版は同部分全体を1オクターブあげているが声部が分離せずしっくりこない。仕方のないことだが全音版がそれを採用しなかった理由が何となく理解できる。もっともヴァイオリン版と出だしがちがうとか声部(和音)が増えたとか、低音が多いと言ってヴァイラウホ版を何となく嫌う向きが多いが、それでは何も生まれない。かといってイエペスやセルシェルのように(ギターと呼びたくない)多弦の楽器を用いてバッハのリュート曲を演奏することは邪道でしかない。つまり…そんなことをする位ならバロックリュートを弾けばよい…ということになる。強引なスコラダトゥーラ(変調弦)と14コースの楽器に頼っているがバロックリュートで全曲を録音したイエペスの姿勢は(演奏内容の好き嫌いは別として)余人の追従を許さない。
兎にも角にも、この現代ギター社の出版は、バッハのリュート曲をギター愛好者にとってより身近な存在としたと言える。つまり、原典資料に基づいて既存の編曲版を土台に各々が自分なりの「実用譜」を容易に構築できる環境があたえられたのである。場合によっては伝承しているタブラチュア譜を見習った大胆な試み(改編)も可能なのである。極論すれば、ギターでバッハを弾こうとする人にとってこれらの曲がリュート曲なのかどうかの真偽はどうでもよいことになったともいえる。オリジナルが、厳密にはクラヴィーア用だとしても(ギターにより近い)リュート的な要素を多少なりとも持っているのであれば自然とギターになじみ効果的なパフォーマンスをあげる。リュートという呪縛から解き放されて、無伴奏ヴァイオリンやチェロ曲以上にギターにふさわしいバッハ作品として昇華(消化)されたといって過言ではない。その最たる例がBWV997「リュート組曲第1番ホ短調」であろう。
以下独り言…
今述べたことを裏返えせば、旋律と伴奏部がデフォルメ(または省略)された無伴奏ヴァイオリンやチェロ曲を「バッハは神聖にして侵すべからず」との盲信に駆られて何の創意工夫(音楽構造の検証)も無く原曲の一音一句に固執(追従)し再現しようとする一部のギタリストには到底理解できないことなのである。あえて繰り返すが、それならばヴァイオリンやチェロを弾いたほうがよほどいい…。
一方、我々アマチュアのリュート愛好家には、リュートでバッハを弾いてみたいという欲求に対して大きな道筋をつけたことには間違いない。しかし、それとは裏腹に『校訂報告書』が間もなく刊行されても、リュート曲なのかどうかという真偽(演奏可能かどうかの検証を含めて)の判定という呪縛からは永遠に解き放たれることなく、高野氏が述べた以上にバッハのリュート曲の研究はますます混迷の度合いを深めて底無し沼化していくのである。
ある意味でギター奏者が羨ましいと思うリュートに憑かれた藤兵衛である。
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