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コンティとテオルボ

週明けから職場に復帰…お盆は親戚を迎える者にとっては休暇にならない…ブログもご無沙汰状態…といいつつ飲み食いにつきあい体重が増えてしまった…

フランチェスコ・バルトロメオ・コンティ( Francesco Bartolomeo Conti 1681-1732 )

 ウィーンの宮廷でオペラ作曲家、テオルボ奏者として活躍したフィレンツェ出身の音楽家である。20才の頃にはイタリアでテオルボやマンドリンの演奏者として名を挙げていた。おそらくこの頃までにオペラなどの声楽曲の作曲技法も習得していたと考えられる。1701年にウィーン宮廷に副テオルボ奏者として採用され1708年首席奏者となっている。1713年にかのフックスの後継として宮廷作曲家に任命され、翌年から1726年に病気で一線を退く前年まで、宮廷やウィーンでのオペラの上演や大きな音楽行事を引き受けることとなった。カンタータ(世俗的なものも含む)、ミサ、オラトリオなどの宗教音楽もふくめて数多くの作品を作曲している。器楽作品については、1707年ロンドンで器楽作品集1巻が出版されたらしいが詳細は不明。他にオペラから抜粋されたシンフォニア9曲と、おそらくイタリア時代のマンドリンソナタが存在するという。興味深いのは当時最高のテオルボ奏者であるのにも関わらずこの楽器のための独奏曲は現在確認されていない。彼の本領はオペラやオラトリオ作曲家であり、テオルボはそれを自らの作品を上演する際にコンティヌオで支えるいわば指揮棒のような道具であったのだろう。ピッチニーニやカプスベルガーとは隔世の感がある。しかも、確かめられる資料にはオペラなどの声楽曲においてもテオルボが(ソロで)活躍するシーンすらあまりないとある。
  1724年に作曲されたオラトリオ『David』がテオルボを効果的(意図的)に使ったその例外である。
David_cd
   2007年発売   参考ソロテオルポ: Jakob Lindberg

  言うまでもなく旧約聖書のダビデとサウル王にまつわる話を土台にしている。ペリシテ人との戦いで巨人ゴリアテを倒し英雄として迎えられた牧童ダヴィデ、苦悩するサウル王、二人の間にたつ王子ヨナタンらの葛藤を描き出す。神に疎まれ悪霊に憑かれた王の狂気をダビデの竪琴が癒す有名なシーンがある。そこにコンティは竪琴に見立てたテオルボのソロをダヴィデの象徴として用いている。彼は、そのダヴィデのレシタティーボとアリアに先立ってテオルボを駆使したプレリュードを置く。それはテオルボをソロとした小シンフォニアといってもよい。聞き手の誰しもがダヴィデが竪琴を爪弾く姿を想い描く。アリアの切々と語りかけるようなテオルボの繊細に織りなすアルペジオや半音階的な旋律はこの作品中最もナイーブでサウル王のみならず我々のまさしく琴線に触れてくる。これだけでもコンティの演奏家・作曲家としてのなみなみならぬ技量を推し量ることができる。曲全体もスカルラッテイを超える深い感情表現を湛えて味わい深く傑作であり、オペラ的な要素が強い作品である。彼の作品の数々が当時のウィーンで絶大な人気を得ていたことは、大バッハがすでに1716年にコンティのカンタータ "我が魂は病みLanguet anima mea"を筆写し後にオーボエなどを付け加え研究してることからもうかがえる。また、ヘンデルのオラトリオ『Saulサウル』もコンティのこのオラトリオに少なからず影響を受けたという説もある。『David』をウィーンで演じた歌手がロンドンに渡りヘンデルの興行に参加していることから、『Saul』の台本や演出にヒントを与えたと推察できる。度々上演された『Saul』のある機会にヘンデルはテオルボをダヴィデの琴にみたてたアリアを使っている事実があり、非常に興味深い。(下記楽譜 コンティの用法に比ぶべくもない)。
Handel_saul_aria

Saul_cd
  手持ちの1985年アルノンクール実況版~残念ながらテオルボ使用の例のアリアは収録されていない。コンティヌオに用いられているテオルボは西村順治氏制作のセラスモデル。

 近年この『David』などのオラトリオやいくつかのカンタータが再演、録音されコンティの名が蘇りつつあるが、クヴァンツが自伝の中で「風変わり(な男)」として表した彼の実像は依然としてベールに包まれたままである。彼のよく知られたエピソードとしては、マッテゾン(Johann Matteson 1681-1764)の著作『完全なる楽長 Der vollkommene Capellmeister』が記すコンティが1730年に「聖職者に暴行を働いた」といったような一件が知られる。クヴァンツは同じ自伝の中で、コンティの息子と取り違えられた噂話であり彼自身とは無関係であると真相を語り彼の名誉回復につとめ、「創造力に富んだ情熱的な作曲家である」と評価している。この事件の数年後コンティはウィーンでその一生を終える。         
 ちなみにヴァイスとコンティの関係については、1723年にプラハでフックスのオペラでテオルボを共演(ソロをコンティ、コンティヌオをヴァイス)した際、ヴァイスはコンティに一目置いていたのは明らかである。ただしそれ以前、1718年から翌年春にかけての数カ月のヴァイスのウィーン滞在時に、コンティとどのような接点があったのか?…興味のつきない藤兵衛である。     この稿書きかけ

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