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2008年8月の16件の記事

私の愛器~ヴィオラ・ダ・ガンバ

 8月も最後、ここ数日大雨にたたられたが、今朝は毎度の朝駆けbicycleを何とかこなせた。軽く流すつもりが九里半と相成った。

 ヴィオラ・ダ・ガンバの弦にふれたついでに我が愛器の紹介。
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  Karl Roy 1966制作 弦長70㎝フレンチモデル

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  ラベルにあるドイツ語で「森の中」を意味する "Mittenwald" とはオーストリアとの国境付近に位置しチロル観光の玄関として知られるドイツバイエルン州南部の小さい町である。同時に、バロック音楽の時代にマティアス・クロッツ(Mattias Klotz 1656-1743)が同地にてヴァイオリン製作を開始して以来、イタリアのクレモナと肩を並べるヴァイオリン工房都市として知られる。

   同地には、ヴァイオリン博物館ヴァイオリン製作学校 などがあり、町や国をあげてドイツ流ヴァイオリン製作技術の伝統の継承に力を入れている。ヴァイオリン界のメッカの一つである。

  Karl Roy氏はそのミッテンヴァルドヴァイオリン製作学校で校長を長年つとめ、近代のヴァイオリン製作に大きな功績を残した人物である。1983年には、リュートやギターの製作家の方々も参加されている「日本弦楽器製作者協会」 の招きで来日し講演や講習も行っている。校長を退いてからはアメリカに移ってヴァイオリン製作の研究や後進の育成に携わっていると聞く。http://www.karlroyviolinbook.com/KRVB_005.htm

そのような彼の製作した楽器の一つが縁あって私の所有するところとなった

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  Bertranのような典型的なフレンチモデルではあるが、写真のように、エンドピンが装着できる仕様(使用していないが…bleah)となっている。また、冒頭の写真を観ても判るように指板も通常よりも延長されている。製作者の意図なのか、依頼者の要望(後に改造された可能性も含め)なのかはわからない。手元に届いた直後、有名なガンバ演奏家の方に相談にのってもらいアドヴァイスを戴いて都内のヴァイオリン(チェロ)工房で調整していただいた(弓もその方のお弟子さんにお世話になった)。楽器を受け取るおり、工房の御主人がその昔当のRoy氏が(旧)工房を訪問されたと感慨深げに語ってくださった。全体のつくりはさすがに質実剛健であり、私の足にはもてあまし気味の大振りで重量感(…軽い方が良いのだろうか??…)もある。いずれにせよ古楽器復興の黎明期を物語る興味深い楽器であるのことには間違いない。色々な楽器を比べる経験に乏しいし楽器の性能を十分引き出すには稚拙な腕前なのだが、そのよく通る音でガンバの醍醐味を満喫している藤兵衛である。

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フェルメールと楽器

  何度も襲う豪雨と雷thunderにおびえながら一筆したためる。
『芸術新潮』の今月号の特集はフェルメール
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東京都美術館で「フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち」が開催されていると聞く。残念ながらなかなか足を延ばす時間がとれない。なにせ人込みの中での美術鑑賞には辟易している質。平日の朝一番に討ってでるという手もあるがなかなかそうもいかない。自家用車通勤に慣れてしまった身にとって通勤時間帯のラッシュは更に苦痛である。毎日埼玉の片田舎から「恐怖の赤羽線」経由で都内に通った学生時代は疾の昔話…。まあ、そのうちチャンスがあれば…といっているうちに忘れはてること数知れず。ここに記すのは忘れぬ用心のためもある。
   古楽器愛好者の自分としては「やっぱり気になるフェルメール」は当然「リュートを調弦する女」などの楽器にまつわる作品である。リュートをはじめシターン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、ヴァージナルなどの楽器などが窓から差し込む光の中でさりげなくたたずむ。フェルメールが耳にした17世紀中頃のオランダの音楽も気になるところ……thunderうあ~っまた遠雷が…。
   くわばらくわばら…bearingsweat01こういうときは同誌を魚(肴)にとっとと寝てしまうのが一番と決め込む藤兵衛であった。

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ガンバのガット弦が届く

  今日も雨、夏休みも終わりというのに遊べない子供達(大人も若干)がかわいそう。しかも、小中高ふくめ授業確保のため夏休みを短縮して今週当たりから始まる学校が多いというのに…weep

  注文していたヴィオラ・ダ・ガンバの弦が届いた。
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  ドイツのküerschner社に今月の初めにWebで注文してほぼ4週間弱…なぜか今回いつもより遅れぎみ…。なぜこの会社かというと、Webでの注文がいたって簡単(支払いはカード)、ガット弦を含め種類も豊富(カタログが充実している。色々な楽器にも対応…サイトからPDFでダウンロードできる)
  

 値段や質についてはなんとも言い難し…なにせ他社と比べるゆとり(?)なし。リュートや19世紀ギターではAquilaやPyramid製なども使うが、こちらはもっぱらナイロンやナイルガット(人工(模造)ガット)がほとんど。急ぐときは国内で手に入れるが、リュートの場合望むサイズの在庫がないことが多い。海外から取り寄せる時は思いきってまとめ買いをする。かさばる物ではないので送料も数量が増えても海外からの注文としてはたかが知れている。今回は1900円弱…。
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A4の雑誌が入る大きさのパッケージの中身。全てガット弦。

 古楽器を弾くからにはリュートやバロックギターおよび19世紀ギターにはガット(羊腸弦)を張ることが理想である。昔からガットには"高価"、"狂いやすい"、"切れやすい"の「3K」の偏見があって二の足を踏んでいた。前述の楽器には日頃ナイロン弦やナイルガットのお世話になっている。
 ところが否が応でもヴィオラ・ダ・ガンバは総ガット張りでなくてはならない。1~3(4)弦はプレーンガット、4(5)~7弦(私のは7弦フレンチ)は巻弦を用いる。ガンバを始めて二年あまり…つきあってみるとガットに対する偏見は徐々にうすれていった。確かに弾き込むにつれて写真のように毛羽立っていく。
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 それを刈り取り、刈り取り(?)…身が細くなりながらも結構持ちこたえる。当然音質は悪くなるが…早めに取り替えれば1~3弦はフレットとして第2の人生を全うすることができる。低音弦の巻弦にいたっては高音弦のように指板上の部分で切れたことがない。切れ時は駒との接触部分が逝くが高音弦ほどの頻度ではない。結構長持ちする。全弦とも弓の接触する部分は不思議とさほど痛まない。
 調弦にはリュートとはまたちがった微妙なペグの調整(回し加減)を必要とするものの、一定の環境で弾く分には音の狂いも思ったほどではなかった。この夏冷房のない高音多湿の場所で弾く機会があったが昔に刷り込まれた偏見がうそのようであった。ただし、ケースから出してその環境になじむまでを前提とする。(まだ経験がない)ステージ上のスポットライトが虎口を広げて待っている…どうしようsadsweat01。いずれにせよ、ガット弦の研究(生産技術の向上)の成果のなせる結果として感謝感謝。

  ガット弦を自作する強者も…。http://park2.wakwak.com/~penny-arcade/gut_string/index.htm

  何よりもロンドンという古楽の最前線にて活躍なされている竹内太郎氏の実践が心強い福音。http://www.crane.gr.jp/~tarolute/kogakkistarter5.htm

 とは言うものの、残念ながら我々が普通手にできる物の値段の高さはいかんともしがたい。国内ではまだまだ販売ルートがお寒い。どうしても海外からの取り寄せが現実。本場はヨーロッパ…ユーロ高の関係もあるが、今回、日本円に換算すると第1弦は960円位、第7弦はなんと6000円弱!と相成った…バス用7弦1セット24000円弱あまりなり!annoy。9月末の演奏会を控えて、切れやすい(私も切れてしまいそうだがpout)高音弦をいつもより多めにオーダーした今夏、車検やらガソリン高も重なって温泉巡りドライブは見合せ…weep
 総ガット弦張りの13コースバロックリュート、ましてや14コースの弦を必要とするリュート・アッティオルバート…考えただけでも、あなおそろしや、おそろしや。でも、(バス・ガンバ程の太い弦をは使わない)バロックリュートではそんなに太くない弦を指板外に長く伸ばして低音を稼ぐがそこそこの長さなので値段もそこそこ。アーチリュートの指板外の長大な低音弦はさすがに値が張るが、張力も強くないのでめったに切れる訳でもなさそう。う~ん、それでも7弦のガンバに比べたら調弦は(ガットに対する偏見は薄れたものの)やはり大変そう。リュートは高値もとい高嶺の花とはよく言ったもんだ。ガンバで知った古色たゆたうガットの音色。いつかはリュートにもガットを張ってみたいと思うが、巷で言う「出世払いの折」のような話になりそう。ジャーマンテオルボ型のバロックリュートの指板外低音弦は響き(消音など)の点からみて部分的に張ってみる価値はありそう。
 せめてもの慰めに(複弦のバロックギターはさて置いて…)19世紀ギター総ガット化をもくろむ藤兵衛である。いつになるや…coldsweats01

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石田堤~のぼうの城

 今日は朝から雨で朝駆けbicycleは中止

 昨日は寒さすら感ずる曇天の中繰り出し途中で霧雨につかまりたまらずUターンする。途中でピタリと雨がとまるものの、風邪をひかぬ用心のため後ろ髪引かれつつも帰宅。目標にしていた十里にあと二里ほど及ばなかったweep

 「石田堤」に寄り道しなければよかった…と後悔する。

 先日『のぼうの城』ゆかりの行田市の忍城を紹介したが、いつもの自転車散歩コースの近くに石田三成の「忍城水攻め」の痕跡を留める遺構があることを思い出したからだ。自宅からも比較的近く過去何度も訪れているのでなにも今日の早朝でなくともよかったのに…おかげで写真も光量不足で散々…crying
 石田三成の本陣があった丸墓山から南下して現在新忍川と元荒川が合流するこの周辺までは自然堤防に若干の土盛をして三成は堤を構築させている。その行田市の往時の地形を物語る「堤根」という地区に残る遺構が「石田堤」なのである。堤上の並木が、江戸時代の中山道から別れ日光へ通じる脇街道を偲ばせる風情が残る。
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   上の写真の左端に写る掲示板(クリックで拡大可)
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 石田堤は新忍川によっていったん途切れ(最終的にこの地点でこの川を塞き止めたと思われる、そしてここが決壊場所となる)、川を境に隣接する鴻巣市(旧吹上町)に入り西へと向きをかえて伸びてゆく。このあたりに本格的な土盛が施された堤が復元整備された。堤を横切る上越新幹線の高架をはさんで、近年旧吹上町によって史跡公園として整備された。おかげでその堤の構造や姿をつぶさに観察できることとなった。
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新幹線高架下より南側を撮影。高架北側に公園がある。
堤の断面図をガラス越しに展示。その上は展望台。右側のヒビは工事の手抜きでなく内部の構造を示したデザインか?

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その展示展望施設の先。堤が延々と続く。我が愛車S17と比べてもその高さがわかる。

 堤はやがて住宅地に入ると姿を消す。果たして後世に削られ埋めもどされたのか?

 この施設周辺は川の合流地点で、「袋」という地名からも水が溜まりやすい袋状の低地をなしており往時は不思議な言い伝えが残る「三千坊沼」と呼ばれる沼沢が存在していたらしい。その先は元荒川沿いに自然の地形(自然堤防の微高地)を活用して要所のみ工事を行ったと私自身は推察している。たった一週間で三成が堤を築きあげたことと、戦いの後に仮に堤が崩され埋め立てに利用されたとしても、江戸時代その周辺の堤の内側の地域では水が溜まり易く水害が多かったことがそれを裏付ける。

 高架下にいくつか「忍城水攻め」を解説する展示がある。
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  丸墓山から水に漬かった忍城を眺める石田三成、大谷吉隆(継)、長束正家ら

 何と俳優の大和田伸也さんが石田三成に扮した「忍城水攻め」のミニドラマを交えた音声ガイダンスを聴くことができる。
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 土嚢を模したコンクリートの俵に、周辺の農民を動員していかに短期間に堤を構築したのかをわかり易く図示したプレートがそえられている。

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 いよいよ「忍城水攻め」のクライマックス「堤決壊の場面」
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 新忍川を塞き止めた前述した公園出入り口にある「堀切橋」付近で堤が決壊したと言われている。いささか大げさすぎる描写であるが、地元民としては思わず快哉を叫んでしまう痛快さ…。『のぼうの城』の映画化(ほんとかな?)がまたれる。

Ishida_tutumi09_3   ピンボケ~ばかりwobblysweat01
 新忍川にかかる「堀切橋」、この先で元荒川が合流する。
とてもレトロな欄干…、背景が行田市側の「石田堤」。

  ちなみにこの新忍川には明治・大正時代の鉄道の古レールを利用したアーチ状のレトロな橋が数多く残る。また近隣の「ものつくり大学」の先には知る人ぞ知る珍しい「馬車鉄道」が通った「がんがら橋」などのかくれた名所がある。

 行田市はお城や古墳ばかりに目をとられこういったものには冷たいdespair。城下町気質からくる偏狭さか?。同じ「石田堤」の扱いかたにしても数十年前から看板一枚というこの始末…(失礼ながらとりたてて目立つ史跡がない)旧吹上町のこの熱心な取り組みからみるととてもお寒く感じる。といっても「古代蓮の里」 の公園内にそそり立つ計画当初から一部の市民の間で無用の長物(?)と批判されていた「市制50年にあわせた高さ50mの展望塔」みたいなわかりやすい箱物にはとても熱心である。WEBを探すと他地域の人々が、これらの行田市民の間でもマイナーな史跡をとても詳しく紹介されておられるというのに…もったなやもったなや。(以下参照)

 幻の忍町「馬車鉄道」や「三千坊沼の伝説」については後日紹介したい。

  この「石田堤」の公園を初めて訪ねる方は、JR高崎線吹上駅または国道17号線を利用して行田市の「ものつくり大学」を起点とし上越新幹線側道を南下すると着実にたどりつける。

  気がつくとここでけっこう時間を浪費してしまったが、ちょっとした夏休みの自由研究のようになった感がある。

 お子さんの夏休みの宿題に追われている親御さんに限り、この記事や写真を使っていただくことには吝かでない藤兵衛である。笑い…happy01 この稿、推敲中run

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変なスイッチが入る

 シンクロなんとかという水泳競技が実に苦手である。もちろん自分が習っているわけではない。テレビを観ていると周囲から顰蹙を買うからだ。とういのは笑いがとまらなくなるのである。「美しさがわからないの?」「一生懸命やっている選手に失礼じゃない!」とどんなに諭されても怒られてもだめである。水中でなにやらもがいているかと思えば、突然足やら笑い顔が水中からニュッと突き出る…そのタイミングが絶妙なのがまたたまらない。他意も理屈もない「変なスイッチが入ってしまった」のだ。

  選手および関係者の皆さんどうもすみません…sweat01

 ふと昔のことを思い出した。大学生の頃、銀座の日本楽器のホールでのリコーダーとチェンバロの演奏会の招待券を数人分もらった。そこで別の大学に通う親友を誘った。その親友が気を利かせてギター部の友人を伴ってきたまではよい。その連れの男は、演奏が始まってまもなくケタケタ声をたてて笑いはじめたのだ。親友が制してもその笑いは止まらない。いたたまれず親友と二人で彼を会場から連れ出した。とても楽しみにしていた演奏会に水を差された私はその理由を問いただした。なんのことはない…好青年のリコーダー奏者(たしか大竹尚之さん??…)の姿がインドのヘビ使いにみえたからだという。エレベーターの中で3人腹を抱えて笑いまくった。その訳のわからなさに怒りもどこかへ飛んでいってしまった。

 関係者の皆さん迷惑をおかけいたしまして大変申し訳ございませんでした。特に大竹さん…ごめんなさいごめんなさい。彼になりかわって今ここで罪を告白し懺悔いたします。

 「箸が転がるだけで可笑しい」という女子高生?とはこういうことなんだろう。まだ一度も遭遇したことはないが、ぜひともどんなスイッチがはいったのか訊ねてみたい。

 リコーダー奏者と共演する際フラッシュバックが起こらないよう祈る藤兵衛である。

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コンティとテオルボ

週明けから職場に復帰…お盆は親戚を迎える者にとっては休暇にならない…ブログもご無沙汰状態…といいつつ飲み食いにつきあい体重が増えてしまった…coldsweats02

フランチェスコ・バルトロメオ・コンティ( Francesco Bartolomeo Conti 1681-1732 )

 ウィーンの宮廷でオペラ作曲家、テオルボ奏者として活躍したフィレンツェ出身の音楽家である。20才の頃にはイタリアでテオルボやマンドリンの演奏者として名を挙げていた。おそらくこの頃までにオペラなどの声楽曲の作曲技法も習得していたと考えられる。1701年にウィーン宮廷に副テオルボ奏者として採用され1708年首席奏者となっている。1713年にかのフックスの後継として宮廷作曲家に任命され、翌年から1726年に病気で一線を退く前年まで、宮廷やウィーンでのオペラの上演や大きな音楽行事を引き受けることとなった。カンタータ(世俗的なものも含む)、ミサ、オラトリオなどの宗教音楽もふくめて数多くの作品を作曲している。器楽作品については、1707年ロンドンで器楽作品集1巻が出版されたらしいが詳細は不明。他にオペラから抜粋されたシンフォニア9曲と、おそらくイタリア時代のマンドリンソナタが存在するという。興味深いのは当時最高のテオルボ奏者であるのにも関わらずこの楽器のための独奏曲は現在確認されていない。彼の本領はオペラやオラトリオ作曲家であり、テオルボはそれを自らの作品を上演する際にコンティヌオで支えるいわば指揮棒のような道具であったのだろう。ピッチニーニやカプスベルガーとは隔世の感がある。しかも、確かめられる資料にはオペラなどの声楽曲においてもテオルボが(ソロで)活躍するシーンすらあまりないとある。
  1724年に作曲されたオラトリオ『David』がテオルボを効果的(意図的)に使ったその例外である。
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   2007年発売   参考ソロテオルポ: Jakob Lindberg

  言うまでもなく旧約聖書のダビデとサウル王にまつわる話を土台にしている。ペリシテ人との戦いで巨人ゴリアテを倒し英雄として迎えられた牧童ダヴィデ、苦悩するサウル王、二人の間にたつ王子ヨナタンらの葛藤を描き出す。神に疎まれ悪霊に憑かれた王の狂気をダビデの竪琴が癒す有名なシーンがある。そこにコンティは竪琴に見立てたテオルボのソロをダヴィデの象徴として用いている。彼は、そのダヴィデのレシタティーボとアリアに先立ってテオルボを駆使したプレリュードを置く。それはテオルボをソロとした小シンフォニアといってもよい。聞き手の誰しもがダヴィデが竪琴を爪弾く姿を想い描く。アリアの切々と語りかけるようなテオルボの繊細に織りなすアルペジオや半音階的な旋律はこの作品中最もナイーブでサウル王のみならず我々のまさしく琴線に触れてくる。これだけでもコンティの演奏家・作曲家としてのなみなみならぬ技量を推し量ることができる。曲全体もスカルラッテイを超える深い感情表現を湛えて味わい深く傑作であり、オペラ的な要素が強い作品である。彼の作品の数々が当時のウィーンで絶大な人気を得ていたことは、大バッハがすでに1716年にコンティのカンタータ "我が魂は病みLanguet anima mea"を筆写し後にオーボエなどを付け加え研究してることからもうかがえる。また、ヘンデルのオラトリオ『Saulサウル』もコンティのこのオラトリオに少なからず影響を受けたという説もある。『David』をウィーンで演じた歌手がロンドンに渡りヘンデルの興行に参加していることから、『Saul』の台本や演出にヒントを与えたと推察できる。度々上演された『Saul』のある機会にヘンデルはテオルボをダヴィデの琴にみたてたアリアを使っている事実があり、非常に興味深い。(下記楽譜 コンティの用法に比ぶべくもない)。
Handel_saul_aria

Saul_cd
  手持ちの1985年アルノンクール実況版~残念ながらテオルボ使用の例のアリアは収録されていない。コンティヌオに用いられているテオルボは西村順治氏制作のセラスモデル。

 近年この『David』などのオラトリオやいくつかのカンタータが再演、録音されコンティの名が蘇りつつあるが、クヴァンツが自伝の中で「風変わり(な男)」として表した彼の実像は依然としてベールに包まれたままである。彼のよく知られたエピソードとしては、マッテゾン(Johann Matteson 1681-1764)の著作『完全なる楽長 Der vollkommene Capellmeister』が記すコンティが1730年に「聖職者に暴行を働いた」といったような一件が知られる。クヴァンツは同じ自伝の中で、コンティの息子と取り違えられた噂話であり彼自身とは無関係であると真相を語り彼の名誉回復につとめ、「創造力に富んだ情熱的な作曲家である」と評価している。この事件の数年後コンティはウィーンでその一生を終える。         
 ちなみにヴァイスとコンティの関係については、1723年にプラハでフックスのオペラでテオルボを共演(ソロをコンティ、コンティヌオをヴァイス)した際、ヴァイスはコンティに一目置いていたのは明らかである。ただしそれ以前、1718年から翌年春にかけての数カ月のヴァイスのウィーン滞在時に、コンティとどのような接点があったのか?…興味のつきない藤兵衛である。     この稿書きかけrun

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丸墓山と忍城(水城公園)~のぼうの城

 お墓参り前の朝駆けbicycle
行田市のさいたま風土記の丘(古墳公園)の丸墓山に登る。
ついでに愛器S17を丸墓山をバックに撮影。
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普段は素通りだが、お盆ということもあって敵将上杉謙信、石田三成を偲んで山頂から行田市の中心にある忍城を眺める。
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彼らが攻めようとした当時の成田氏の忍城は中世の「館(やかた)」を拡大したものであって、天守閣などの大型構造物があったわけでない。しかも鬱蒼と木立繁る往時、写真のように視認できたかは疑問である。今日、近づいて見上げるのは江戸時代領主の阿部氏や松平氏※によって整備された城郭に聳えたっていた櫓(やぐら)を近年復元したもの。残念ながら天守閣は存在しなかった。この櫓は忍藩十万石を象徴する建造物である。※リュート奏者中川祥治さん縁の桑名藩より移封。現在桑名市と行田市は姉妹都市
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近隣する水城(すいじょう)公園は「浮き城」と呼ばれた忍城の面影をわずかに留める。
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 かつての行田市の中心は中世から江戸時代にかけて沼沢が複雑に入り組み城を護ってきた。石田三成はそれを逆手にとり「水攻め」を思いつき、丸墓山を起点に長大な堤を構築する。ところが、のぼう様に率いられた敵勢に苦戦するうち、その堤が決壊しあえなく光成の目論見は失敗する。その故事が天下に鳴り響き江戸時代に「関東七名城」の一つとたたえらる。明治になり城が破却されてその堀(沼沢)もほとんど埋め立てられた。その一部が水城公園として整備された。
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公園の奥に当時の城下のありさまを伝える風情が残る。

 『のぼうの城』(小学館)  のイメージを求め訪れる方は公園の大沼の道路反対側を訪ねるとよかろう。『田舎教師』を著した田山花袋の文学碑などもある。とりあえずhttp://www.tvg.ne.jp/gd0885791/index.htm などご覧あれ。
  これから、施餓鬼に赴かんとする藤兵衛である。(8/22加筆)

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オランダバッハ協会のヨハネ受難曲

 昨日はお盆の入りなのにバッハのヨハネ受難曲を聴いた

 朝駆けbicycleから帰宅しシャワーからあがったところで、オランダバッハ協会によるヨハネ受難曲(初稿版)のCD(Nyankomeさんのブログでも数年前に紹介されていた)が届いた。あるCDの注文のおり、以前から気にはなっていたこのCDを意を決してオーダー。ところが抱き合わせで注文していたJ.S.WeissのオーボエソナタのCD(こちらが本命だった?)が入手困難でキャンセルを決断weepするまでに思った以上の時間を費やしてしまっのだ。そんな訳で、とるものも取り敢えずご先祖様のお迎えを差し置いての不埒な仕儀angryannoyとなったのである。まずは不思議なデザインのケースに魅入られる。
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 古色蒼然とした雨ざらしの十字架の表面を思わせるケースの背に能面の小面(こおもて)と見紛うマリアのかんばせが顔を覗かせる…引き出すと解説書とCD収納部とに分かれるというからくり。そして、豪華な解説書にため息…190頁を超える堅牢な作り。物語(演奏)の進行(歌詞)に併せて美しい写真(挿絵)をちりばめるという心憎い演出。
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 上の写真はリュート伴奏のアリオーソに続く「鞭うたれるイエス」の場面…何とこの場面だけで6点掲載!

 演奏は全体にわたって、最終稿(第4稿)で色彩を増した部分をそぎおとして復元された初演時のシンプルな編成と、ソリストだけによる合唱も素朴な響きが相乗して、気負いのないすがすがしいメリハリが表出されている。特にヨハネ受難曲の劇的な性格を特徴付ける群衆のコーラスにおいて各声部と器楽が一音一音鮮明に鮮やかに伝わってくる。かつて耳にしたどの演奏よりも、長短々のリズムが耳に心地よい。噂以上の好演に時間を(ご先祖様も?)忘れてステレオに相向かってしまった。ソリストによる合唱ものとしてはご本家のリフキンのロ短調ミサ曲よりも洗練された演奏で新鮮さを堪能できた。何よりも発声(発音)の素晴らしさはヘレベェヘ率いるコレギウム・ヴォカーレと肩をならべる。器楽もその声部を絶妙に支えてる。各アリアの演奏も美味。
 リュート愛好家としては、例のアリオーソの演出にも胸をときめかせたが、冒頭合唱を始め各所で頻繁にもちいられるリュート(テオルボ)の響きの新鮮さに興味津々。以前はバッハの教会(宗教)音楽にテオルボを使用することはタブー視(チェンバロの使用すら御法度であると主張する人もいた(る?))されていたが、ヨハネ受難曲の第4稿でのチェンバロやリュートの扱いはそれに反駁するかのようで興味深い。
 午後、無事先祖様を迎え終えるとすかさず同協会演奏のロ短調ミサを早速オーダー。もっと早く買っとけばよかったと悔い改める藤兵衛であった。

 明日は一族郎党が我が家に集いお墓参りと宴たけなわの毎度のお盆となる。     

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ポンポン山

 今日から待望の夏休みnotes、やっと夏風邪がぬけ平日どうどうの朝駆けbicycleに興じる。

 いつもの荒川の土手からはずれて吉見町の比企丘陵末端にあるポンポン山を訪ねる。中学生時代以来の訪問ですっかり迷う。山頂で「足を踏み下ろすとポンポンという音がする」ことが名前(通称)の由来。確か友人たちとドタバタ飛び跳ねた記憶が…その時の音は?think?。その時恐る恐る見下ろした岩石が露呈したほぼ垂直の断崖絶壁…高さ20mはあろうか?
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 空洞がありそれが反響するなど諸説紛々。知る人ぞ知る観光スポット。古代の磐座信仰を物語るかのように鎮守様が鎮座まします。柏手ならいざ知らず、早朝から神社の裏山で大の大人が足をポンポン踏みならすのも気がひけて写真だけとって家路につく。

  今日からお盆…迎え盆の準備が待っている…。
ポンポンnote ボンボンnote  とペダルを踏む。

ポンポン山 詳しくはこちらで紹介されている…。
何と!音も聴くことearshineができる!

     http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/ponpon.html


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クヴァンツとゼレンカそしてバッハ?

 今日は以前の休日出張の代休をいただいた。残念ながらここ数日久しぶりの夏風邪で外出がままならない。土曜日の朝駆けbicycle十里強の後の不摂生(シャワー後のクラー効かせてのうたた寝)がたたったのだ。おかげでその晩楽しみにしていた(滅多にやらない)夜駆けbicycleをかねて荒川土手まで繰り出しての熊谷市の花火大会 見物も見合わせweep、その翌日(昨日)のアンサンブルの練習も欠席するという体たらくwobbly。頭痛と節々の痛みと変な悪寒にさいなまれながら、ブログ用の原稿を書きためて気を紛らしているところ。

          …と言い訳するのはいいわけないが…。

 誤解のないように言っておくと、ゼレンカは藤兵衛の好きな作曲家の一人である。いまでこそ復権し高い評価を得ているが、バッハと同じように当時はマイナーな音楽家であった。ただしバッハはドレスデンではオルガンの巨匠として注目されていたが、ゼレンカはかの地において不遇の日々を囲っていたのは事実である。これらのことについてはいづれ機会があれば触れたいと思う。

 前回の記事 の中で是非とも確認しておかなければならないことがある。1723年、プラハでの皇帝カール6世の戴冠式にゼレンカがザクセン選帝侯(強健王)に随行して現地に滞在していたのは確かであるドレスデン楽団員の中から当地ボヘミア出身のゼレンカに白羽の矢がたったのは当然の理である。ポーランド王でもあるザクセン選帝侯が、オーストリアハブスブルク家皇帝のボヘミア王就任戴冠式に列席することについて政治的な駆け引きが渦巻いていたことは言うまでもない。当地で名声を高めていたゼレンカの凱旋によって注目をひこうとしたのはまちがいない。事実、ゼレンカはこの機会のために

  • 協奏曲ト長調 ZWV186
  • 序曲「ヒポコンドリア」イ長調 ZWV187
  • 組曲ヘ長調 ZWV188
  • シンフォニアイ短調 ZWV189

…といった主要器楽曲を準備(作曲)して当地で演奏し大好評を得ている。この時がゼレンカの生涯で一番晴れやかな舞台であったといえる。逆に言えばドレスデンの彼の地位はあくまでもコントラバス奏者でありここにあげた器楽曲以外ではプラハ訪問以前に書かれたカプリッチョ4曲(その他訪問後に書かれた1曲も存在)や有名な6つのトリオソナタなどほんの数点しか伝わっていない。日常のドレスデン宮廷での音楽活動においてクヴァンツのフルート・トラヴェルソの師ビュッファルダンなどの例と比べると決して作品数は少なくないが、楽長ハイニヘェンやヴァイオリンのピゼンデルとは比べ物にならないのは確かである。
 また宮廷団の楽士間に派閥争いが存在したことは疑う余地もない。ヴェラチーニなどはその犠牲者ともいえる(後日に紹介)。強健王の政治的思惑とその派閥関係がプラハ行の随行要員選抜に影を落したことは十分考えられる。自分が確かめた数点の資料には強健王は(プラハに)楽団を随行させたとあるが残念ながらそのメンバーを確認できない。憶測で言うならば、よそ者ドレスデン楽団員が大挙して他人の家(プラハ)に土足で上がりこみ威勢を誇示するよりも、在地出身の英雄ゼレンカと在地宮廷や貴族の楽団に華をもたせることによって得る絶大な政治的配慮(効果)を強健王は期待したのであろう。意味深長な内容のゼレンカの世俗歌劇「オリーブの木の下での和解:聖ヴァーツラフの音楽劇 ZWV175」はまさしく当地の貴族たちの要請によって作曲上演されたのである。まさしくポーランド王としてボヘミアの貴族たちに寛容さを示すザクセン選帝侯としての政治的デモンストレーションにゼレンカは利用されたことになる。事実それ以降の強健王のゼレンカに対する利用価値はハイニヘェンの療病における楽長代行とお固い教会音楽作曲家以外にはなかったのである。そのハイニヘェンが随行要員の中に名前を連ねていたかどうかは一番興味のあるところだが随行メンバーはゼレンカを中心に彼の取り巻きといった限られた顔ぶれであったのだろう。クヴァンツの自伝にはその時の強健王の列席と宮廷楽団員の随行の件については一言もふれていない。そして選にもれたクヴァンツがヴァイスらと伴って個人的にオペラを聴きにいって飛び入りでオーケストラに参加しゼレンカについて一言も触れていない不可思議であてつけがましい自伝の記述はそのような裏事情があったからなのであろう。

 ちなみに今までのクヴァンツについての記述については
クヴァンツの自伝の邦訳『わが生涯』(井本晌二訳シンフォニア刊)に依っている。
Quantz_book_2

 『フルート奏法試論』の出版2年後の1754年に書き上げられ、それまでの彼の音楽武者修行や音楽観、交流した音楽家など興味深い記事(裏話)が伝えられている。1723年の一件はまさしく裏話であり関連の記事を書くきっかけとなったのである。ちなみこの自伝において、ゼレンカのことは対位法を習ったということしか触れられていない。また、巷でささやかれている自身と大王にまつわる自慢話は…(すでに鬼籍に入った)大バッハと息子(ポツダムでの同僚)エマヌエルの名前とともに…見いだせなかった。い。       

 今回、ゼレンカの記事については、「Hipocondrie」 というゼレンカ紹介のHPを参考にさせていただいたので感謝の意を含めて紹介いたしたい。

 クヴァンツという時の寵児の視点からみるとバッハもゼレンカもそんなものかと思い知らされた藤兵衛であった。努力家クヴァンツについては改めて書くこともあろう。

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今までの反省…

改めてこのブログについての反省(お断り)

  このブログを始めたのが6月下旬の記事http://tobetobe-tobe.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/overture.html 以来で2カ月ほどたちました。リピーターの方も少なからずいらっしゃるようでうれしい限りです。ここで少しばかりの反省…

 あくまでも「ディレッタント(素人好事家=半可通)の藤兵衛」が勝手気ままに書いているブログなのでお恥ずかしい独善的(勝手な想像)な内容が多々あります。また、色々な方が過去紹介されていた記事と重なることもあるかと思います。あくまでも私自身が興味を持ってきたものについての備忘録としてブログに書き留めています。ちょっとでもお役に立てば何よりなのですが…。あくまでも様々な情報を私自身の頭の中で整理した物であって、決して人様の記事をそのまま貼り付けるなどの行為は断じておこなっていません。また某国営放送局の大河ド○マ※のように「史実をゆがめた受けの良いエピゾード(創作話)を散りばめて善良な老若男女を惑わして憚らないもの」では決してございません。そこまでの意図と能力は私にはありませんが、誤解を招かないように根拠となる出典や引用元はできるだけ紹介しなければと反省しております。掲載する写真等については著作権法に抵触しない範囲でおこなっておりますので、記事の内容含めて何か問題、要望等があればメールにてご指摘ください。誤字脱字ふくめて気づくたびに過去の記事の訂正を度々行っていますが、大きな内容の訂正については「何月何日付け改訂」等の断りを入れようとも思っています。

 ここで改めてお詫び申しあげた上で、至らぬ点も多々あると思いますが「今後ともお付きあいいただければ恐悦至極の至りなり」とただただ平伏する藤兵衛であります。

 ※大河ド○マは、歴史関係をささやかな飯の種として暮らしている藤兵衛としてはフィクションと知っているからこそ、つまり善良な男でないから?(笑い)長年面白おかしく拝見させていただいております。宮崎あおいさんの天璋院に興味津々ですgood

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クヴァンツとヴァイスとフックスそしてゼレンカ?

  クヴァンツは、1723年7月にドレスデン宮廷の同僚ヴァイスと、そののち(当時一番人気の)受難曲『イエスの死』を作曲するドレスデン宮廷(歌劇場)歌手グラウン弟(Carl Heinrich Graun 1704?~1759 昨日の8月8日が命日)と連れ立ってプラハにでかけている。目的は神聖ローマ帝国皇帝カール6世(あのマリア・テレジアの父)のボヘミア王就任戴冠式(兼皇后の誕生祝いとも聞く)で上演される壮大なオペラを聴くためである。演目は「Constanza e Fortezza(堅実さと力)」、作曲者はかのフックスである。この日のためにプラハ城(宮殿?)に隣接して4000人収容の野外ステージが設けられ、歌手100名、楽器奏者200名が動員されたと伝えられている。

     ここでやっとフックスの紹介…。  

                         Fux_7       
 ヨーハン・ヨーゼフ・フックス(Johann Joseph Fux 1660-1741)

  オーストラリア生まれ。1698年、38歳の時イタリア人を差し置いてハプスブルグ家皇帝カール6世によってウ ィーン宮廷音楽家に抜擢される。若い頃の経歴は不詳だが、イタリア修行無しにはこの職にありつくことは不可能だろう。フックスは皇帝が亡くなる1740年まで宮廷楽長として常に皇帝の側に仕えており、皇帝が彼をいたく気に入っていたのも事実である。1725年に刊行されバッハやベートーベンなど後世の音楽家も勉強したフックスの著名な対位法の理論書「Gradus ad Parnassum(パルナッソス山への階段)」に皇帝は金銭的支援をおしまなかった。また、皇帝は、1723年前述した「Constanza e Fortezza」上演に際して、痛風で苦しむフックスを丁重に椅子籠に乗せてウィーンからプラハに呼び寄せ、上演時に自分の傍らに席をしつらさせ老フックス63歳を喜ばせたとクヴァンツは伝える。尚、クヴァンツの自伝にはクヴァンツがフックスに直接教えを受けたという記述はない。現在、古式な様式(特に声楽)を留めながらもイタリアやフランス音楽を取り入れた端正な作品が数多く伝承している。  

 …話をもどそう。(えっ。やっぱりフックスは出汁だったの!?bleah) 

 クヴァンツは、そのオペラ上演に参加した音楽家(ウィーン宮廷縁の音楽家を中心に各地の一流どころが大勢加わっている)を何人か紹介している。興味深いことにフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のフックスの項では、クヴァンツと同じドレスデンの同僚ゼレンカ(1679-1745)も参加したと紹介しているが、クヴァンツは一切そのことには触れていない。少なくともプラハで学びフックスの弟子でもあるゼレンカ44歳が若造?3人組(ヴァイス36歳、クヴァンツ26歳、グラウン19歳)とは別行動で参加したという可能性は強い。それにしても奇遇にも旅先で出会った同僚のことを紹介していないとは…不思議不思議…。しかも、クヴァンツはその大先輩ゼレンカからフックス仕込みの対位法を教授してもらっているのに…。あ~あ何と影の薄いゼレンカ…。

 話を旅の道連れ3人組にもどそう。…リーダはなんといっても年長のヴァイスだろう。彼らは本来はこのオペラを聴きにきたのである。言い出しっぺは誰?…もしかしたらヴァイスかも(根拠は後述)。ところが彼らはいつのまにか上演メンバーに加わってしまっている。ことの真相は、あまりにも入場者が多いため貴族でさえも入場制限が加えられるとの噂を耳し(実際当日その通りになった)、この危機を3人組はオーケストラのエキストラに応募するという手段でちゃっかり切り抜けたのである。クヴァンツは得意気に練習が何度も行われたおかげでたっぷりこのオペラを堪能できたと語っている。彼らがこの時請け負った楽器からみても明らかに飛び入りトラであったことをうかがわせる。クヴァンツはオーボエ、グラウンはチェロ担当といった具合だ。

 ゼレンカに対するシカトは最初からオーケスラに招聘されていたというやっかみかしらん?                 

 気になる我等がヴァイスはテオルボを担当。当然といえば当然だが…ここで真打ち登場。実はこのウィーン宮廷楽師(20数名)をはじめとする200名の混成多国籍楽団にすでに第一テオルボ奏者としてコンティ(Francesco Bartolomero Conti 1682-1732)が君臨していたのである。クヴァンツは、ウィーン宮廷で活躍していたフローレンス出身のオペラ作曲家の彼のことを「風変わりな男であるが想像力豊かで情熱的な作曲家であり当時最も優秀なテオルボ奏者の一人」であると紹介している。あくまでもトラ(借りてきた猫cat)のヴァイスはコンティヌオ奏者に徹するふりをして実は横目を使ってコンティの技術を盗まんとしていたのかもしれない。おそらくヴァイスの旅の目的はここにあったといえる。プラハに行きたい奴この指(先年かまれた傷跡が痛々しい…)とまれ~とツアー参加者を募ったのだろう。トラ参加の提案もヴァイスかもしれない。こんな近くで(4000人のしかも音しか聞こえない客席ではなくオーケストラピット内!)名人技を見ることができるのは絶好のチャンスだから…。コンティの変わり者というの評判は、レッスンなど受け付けてもらえないという不安をヴァイスにかきたてたのだろう。
 このオペラにはコンティが受け持つことを前提としたテオルボのソロが活躍するレスタティーボやアリアがしつらえてあったと考えられる。これを確かめるべくこの作品の情報…せめてCD…がないかとネットで海外まで検索にかけたのだが残念ながら見つけることができなかった。スコアは市販されているがこの目的のために買うには高すぎる…。でも、こんな頁を発見。http://xoomer.alice.it/senesino/fux.html  MIDIでこのオペラのシンフォニアを聴くことができる。いや~どこにでも好き者はいるんですな~。コンティについて後日紹介しようとする好き者藤兵衛。

 それにしても演奏メンバーに加わっていたのに挨拶もされなかったとはなんて存在感のないゼレンカ…。

 それはさておきクヴァンツのこのオペラ上演の後日談…。

  • その1 タルティーニや有能なリュート奏者メステル夫人などの演奏に接したこと。

 メステル夫人なる人物の技量や経歴やヴァイスとの交流も気になるところだが…残念ながらそれ以上のことは伝えられていない(ヴァイスがコンティに教えを受けられたのかも不明)。一方(「悪魔のトリル」で有名な)タルティーニ(1692-1770)に関してはヴァイオリンの演奏技術は高いが音楽表現・歌わせ方(演奏法)は悪趣味であるとクヴァンツはお気に召さないご様子。ちなみにグラウンの兄ヨハン・ゴットリープがこのプラハでタルティーニにヴァイオリンを師事している(『ウィキペディア(Wikipedia)』ヨハン・ゴットリープ・グラウンの項)… ??。※この兄弟は当時からよく混同されたらしい。クヴァンツの自伝の訳者も混同なされている可能性もある。   

  • その2 このフックスのオペラについての感想。

 一言でいえば、「無味乾燥、単純で教会向けのオペラである」と一刀両断…手厳しい(クヴァンツがフックスの愛(直)弟子でないことは確か!?)。ただし、こういう音楽はこのような大編成で極めてよい効果をあげていたと評価はしている(実際、演奏に加わって楽しんでいる感じではあるが…皮肉にもとれなくはないsweat01)。一方、細かい音型や装飾など創意のあふれた(今風のクヴァンツ好みな)ギャンラト様式ではこのような玉石混淆の大編成には不向きで、室内で正しいアンサンブル(優れた技量と適切な人数)によれば絶大な効果をあげると結論付けている。さすがクヴァンツ!good

 ここでもすっかり蚊帳の外のかわいそうなゼレンカ…ここまでくる彼が本当にプラハにきていたのかと疑う。クヴァンツはそんな意地悪をする人ではないと信じている藤兵衛である。

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クヴァンツとヴァイスとフックス?

  なぜフックス?かというと…。

 クヴァンツについて調べていたところ(思わぬところで)フックスとヴァイス、さらにリュートに絡むエピソードを発見したからなのだ。 

  そこで、藤兵衛なりにクヴァンツについてもう少し紹介してみよう。(おいおいフックスは…どうしたのcoldsweats02

Quantz_port

 クヴァンツは名フルート・トラベルソ(以下フルートと記述)奏者および(フルート曲の)作曲家として名高いが、最初からこの楽器に人生をかけていたわけではない。10歳で鍛冶屋の父親に先立たれた彼は町楽師の叔父に引き取られ音楽を生業とすることを余儀なくされたのである。この叔父もまもなく亡くなったが、後任の楽師により当時一般的なほとんどの楽器の演奏技術をたたきこまれたのだ。そのうち特にヴァイオリン、オーボエ、トランペットの技術を飯の種として磨くことになる。
 そのかいあって、クヴァンツは1716年伝手を得て19歳でドレスデン宮廷楽団にヴァイオリン奏者として加わり、時にトランペットも演奏する幸運をえた。彼はその頃楽団のリュート奏者ヴァイスやヴァイオリンのピゼンデル、フルートのビュッファルダンらの名手たちの活躍ぶりを羨望するとともに彼らと肩を並べようと切望するのである。
 ちなみに、ヴァイスがドレスデン宮廷楽団に正式雇用されるのが1718年の30歳弱の時である。実際には、その前にヴァイスはドレスデンを2度ほど訪問しているのでクヴァンツとの出会いもその時のことであろう。クヴァンツの自伝をみるとヴァイスもこの段階で非常勤的な形で楽団に加わっていたのかもしれない。

 その1718年はクヴァンツにとって人生の大きな曲がり角の入り口であった。彼は、この年ザクセン強健侯の息子ポーランド王アウグスト3世によって設立されたポーランド楽団に、オーボエ奏者として採用され、ドレスデンでのヴァイオリン奏者兼任という自身の技量を生かせる願ったり叶ったりの前途洋々の生活が始まるかと思えた。ところが翌年には周囲からフルート奏者になることをせがまれたのである。現任奏者からその席を譲りたいとのたっての要望もあって断り切れなかったクヴァンツは、まさに一大決心をしドレスデン宮廷楽団のフルートの名手ビュッファルダンからフルートの特訓を受けることとなった。4カ月あまりでその技術をものにしフルート奏者クヴァンツとして転身したのである。それまでに多少フルートの心得があったというが、恐るべしクヴァンツ!この時22歳…。ただしオーボエを完全に手放しフルートに専念するのは1728年頃である。
 一方、彼は、ヴァインオリンの手ほどを受けていたピゼンデルからは演奏法のみならず音楽観・芸術観も感化され本格的な作曲に関する勉学の志をかためたのであった。また対位法に関する知識は、同じくドレスデンで活躍していたものの影の薄いゼレンカ(最近注目されてきたnote)から学びとっていった。そのゼレンカの師匠がウィーンで活躍していたフックスというわけである。
 (ふ~sweat01…やっと彼にたどりついた…)とても回りくどいお話で恐縮のいたり…。フックスは単なる出汁??

その後のフックス、クヴァンツ、ヴァイスにまつわることの次第についてはまた後日…

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カセットテープと再会

 先日車検で車carをディーラーにあずけた。代車に乗って驚いたsweat02。そんなに古くはないオペルなのにオーディオは何とカセットテープ仕様!自分の車はメモリー対応なのになんというアナクロ…。何としても使えない。通勤途中に音楽がないと禁断症状に苦しむshock
 そこで再び(ブリームのLPの一件以来の)発掘作業を強いられることとなった。出掛けの慌ただしさの中、ラックから内容も確認せず適当にカセットテープを選び出しセットした。聴こえてきたのはバッハの「音楽の捧げ物」のトリオソナタ!これまた先日の記事で触れたばかり…。何の因果であろう。でもカセットテープの音質もまんざら捨てたもんじゃないと気づく。一体いくつあるのかも見当がつかない。発掘の意欲がメラメラとわく。半ば死語となったエアチェックという言葉も脳裏に蘇ってきた。しかし、この代車に乗れるのも数日限り…自宅のラジカセにテープはないし自室のオーディオセットにカセットテープデッキは接続していない(レコードプレーヤーは接続しているのに…どこかにしまい込んだままかな?)。まあ、お盆休みにでもトライせん。そういえばDATにもいろいろ撮りためたままだcoldsweats02。MDはなぜか好かない藤兵衛であった。

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ガンバ版無伴奏チェロ組曲全集

 良い酒も聞こし召しすぎると悪い酒と変わらない。今朝の朝駆けbicycle八里でダウン…despair
シャワーをあびて昨夜の続き…走りながらフックスの件を何となく思い出すも閑話休題。

前回の続きをば…。

ヴィオロンチェロ・ダ・スッパラに霞んでしまった話題を一つ。

ヴィオラ・ダ・ガンバによるバッハの無伴奏チェロ組曲全集

Pandolfo_bach
パオロ・パンドルフォによる2000年録音

パンドルフォ(CD解説の写真)
Pandolfo_bach_inn_3    
サバールに師事しエスペリオンXX(現XXI)にも参加し、現在ソリストとしても活躍する鬼才(この写真もすごい!sweat01) 

 彼自ら編曲したおそらく世界初の試み…
ご存じの方も多いと思うが、改めてヴィオロンチェロ・ダ・スッパラ版と聴き比べてみるのも一興…ガンバのオリジナルかとまごうばかりの幽玄な響きの世界を堪能できること請け合いnotes

  CDの曲順

  • CD1: 1番、3番、5番
  • CD2: 2番、4番、6番    

 奇数、偶数に分けた意図は?チェロ組曲オタクでもない藤兵衛は他の例を知るよしもない…。
 といいつつバッハのヴィオラ・ダ・ガンバソナタの方にはまってしまっている藤兵衛…。それについてはまた後日…
 寺神戸氏も触れられていたように意図的に曲の難易度(完成度)が番号順に上がっていくので番号順が妥当なところらしい。いきがけの駄賃で奇をてらっただけのことか?…これもまた一興かな?

   移調について

  • 第1番BWV1007 ト長調   → ハ長調
  • 第2番BWV1008 ニ短調  → ニ短調※
  • 第3番BWV1009 ハ長調  → へ長調
  • 第4番BWV1010 変ホ長調→ ト長調
  • 第5番BWV1011 ハ短調  → ニ短調
  • 第6番BWV1012 ニ長調  → ニ長調※

   ※印の2曲のみ原調のまま、バス・ガンバの開放弦(七弦からわかりやすく言うとイニトハホイニの順)の関係(主音・属音のつかいやすさ=響きやすさ)でハトニ系が多くなるのは同然の理。ただし5度系のチェロと4度系のチューニングのガンバの違いなど諸々の理由で必要に迫られて敢えて移調することとなる。
 また、解説によると「スコラダトゥーラ(変則調弦)を試みたのが1つある」とのこと。何番との明示がされていないので戸惑う。まず、一番疑わしいのがヘ長調にした第3番…。必ずしも5弦のト音をへ音に下げる必要はないが主音の低音の開放弦はあった方が技術的にも楽になり響きも豊かになる。一方属音(ハ音)の持続低音的な扱いにおいてはこの調では効果的である。 第6番においては、例えばプレリュードでは第1弦ホ音の開放弦を必要としているので第1弦をホ音にあげる必要があるが、どうやら3弦のホ音をつかっているようだ。逆に第5番のオリジナルでのスコラダトゥーラはガンバ版では特に必要としないですみそう…かな?(あやしいぞ)。未熟な藤兵衛には判断つきかねる…。
 全体的に各所で和音や低音部の付加、オクターブ移動などを施し7弦もあるガンバの特性を生かそうとしている。…さすが面目躍如とほくそえむ藤兵衛

 藤兵衛も自分で全曲(まともに弾けるわけでもないのに)ガンバ版をおこしてみた。CD通りの調性で1番、2番、4番は結構いける。5番もそこそこかな?(自信はない…)。残りの曲についてはかなり???な部分があるような気がして、試しに先程の短絡的なセオリーに従って2番をト短調、3番をト長調、5番をト短調(リュート版と同じ)、6番をハ長調などにしてみたが(Finaleにかかれば移調はおてのもの)、効果をあげるところも多々あるが、曲(楽章)によっては演奏困難な箇所がでてきてしまいかなりの工夫が必要となる。例えば3番はト長調だとハイポジションが超きつい。6番は弾きやすい部分も多くなるがニ長調に比べ華やかさがなくなる。短調の2つの曲はト短調でも弾けそうだが4度低い二短調の方が渋めに響き重厚さに秀でている。さすがパンドルフォの調性の選択に抜かりはないようだ。もっとじっくりCDを聴いて研究したいところだ。自分で弾きこむのが一番だが…一部の舞曲がいいところ…人前では…coldsweats01

 とどのつまり、知識と技術の未熟さ、経験と時間のなさを棚にあげている藤兵衛である。なによりも…腕を磨き経験をつむのが先…お後がよろしいようでhappy01

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ヴィオロンチェロ・ダ・スッパラの情報

  土曜日は、さいたま市に営業のような出張。現場の人込みの中に懐かしい人々あまた見いだし(石油関係※の仕事でないが)せっせせっせと油を売りまくる。  「飲もうや~」の誘いも運転があるので(かわりに)涙を飲んで帰宅。調整依頼した不調気味のガンバの弓の件で東京古典楽器センターからメールが届いていた。

  ※ちなみに行きがけにたまたまた立ち寄ったGS…なんとハイオク197円coldsweats02…申し訳なさそうに従業員が色々気を使ってくれた。

 

  なんやかんやで、今夜は気分よくウイスキーを(ちょっとだけ)たしなみながら記事をば書かん…
     sign02あれれ…フックスって?…… ちょっと思い出すまで暫しのご猶予をsweat01

  穴埋めに…  ヴィオロンチェロ・ダ・スッパラの情報見つけたので紹介

コロムビアのサイトhttp://columbia.jp/artist-info/terakado/special.html

もう一つ記事を改めてご紹介いたす所存…

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