ブリームがしでかした「とんでもないこと」とは何か?
昨日紹介した『ジュリアン・ブリームギター選集』第3巻に掲載されているディアベリの「ソナタ イ長調」のことである。
ブリームによるこのソナタの曲目解説より抜粋
「…彼(ディアベリ)はたいへんにすぐれたギターの教師でもあり、3つの大きなソナタを含めて100曲以上のギター曲を作っている。ギターの作品は非常に上手に作られているものの、音楽的な水準がソナタの全楽章を通じて高く保たれているとは言い難いので、2曲のソナタの中から優れた楽章を2つずつ-ヘ長調のソナタの最初の2楽章(イ長調に直してある)とイ長調のソナタの終わりの2楽章-をとって組み合わせた。こうした結果は、ディアベリのもっとも良いものだけが表われるようになり、古典派時代の数少ないギター作品のレパートリーにつけ加える良い作品となったと思う。」
つまり、このイ長調のソナタは寄せ集めの編曲ものなのである。
もとのディアベリの作品を紹介しておくと
3つのソナタ Op.29
第1番ハ長調
- Allegro
- Andante Cantabile
- Menuett
- Rondo Allegretto
第2番イ長調
- Allegro risoluto
- Adagio
- Menuett
- Rondo Allegretto
第3番ヘ長調
- Allegro Moderato
- Andante Sostenuto
- Finale:Adagio-Presto-Adadio-Prestissimo
すなわち第3番をイ長調に移調して終楽章のかわりに第2番の後半2楽章を用いたのである。
まずは第1楽章のオリジナルとブリーム版を比べて見てほしい。
第1楽章 ブリーム版
同 オリジナル
確かにイ長調にあげ装飾を施したことで演奏パフォーマンスは上がり華麗さも増している。
調性を変えていない4楽章も技巧的な装飾を加えてヴィルトゥオーゾ性を高めている。
第4楽章 ブリーム版
同 オリジナル
ブリームは「ディアベリのもっとも良いものだけが表われるようになり、古典派時代の数少ないギター作品のレパートリーにつけ加える良い作品となったと思う。」と無邪気に語っているが、初めて聴く(弾く)人になんて罪なことをしてくれたものだ。これはもはやディアベリの作品とは別物であってブリームというヴィルトゥオーゾの興行的作品でしかなく一般のギター愛好家の普遍的な作品になろうはずがない。私自身、レコードで聴く分にはブリームの名人芸にただただ聞きほれたが、いざ自分で弾いてみると自分の技術不足以上に言いようのない弾きづらさ(特に展開部)を昔から感じていた。もともとオリジナルの各ソナタにおいて各楽章の主題的(有機的)関連性はさほど明確でないが、それしにしても、第3楽章の単純なメヌエット(それでも創意に氏触れ個性豊か)と、ブリームが手を加えた他楽章とのバランスの悪さつまり違和感(あくまでも自分の感想…)は一体なんだろう。
第3楽章 オリジナル版
ちなみに、ブリーム版でも音型は、ほぼオリジナル通りであるが、発想記号やアーティキュレションはかなり変更している。例えば、冒頭はオリシデルの p のかわりに f 、sf のかわりに mf が指示されている。
このことは2楽章で問題になる。曲自身はハイドンの交響曲の緩徐楽章を思わせるように多声的に進行し、ソルやジュリアーニのギター臭さとは違った本格的な音楽である。
第2楽章 ブリーム版
同 オリジナル
ブリーム版も一部にハーモニックスを使用する以外はメヌエット同様にオリジナルをほぼ忠実に移している。ブリームの演奏を聴く限り名曲といっても間違いがない。ところがオリジナルの楽譜を見ると事情は違ってくる。その後半部分…
ブリーム版
オリジナル
ブリーム版ではオリジナルの絶妙なニュアンスのアーティキュレーテョンの指示が全く別物になってしまっている。オリジナルを知らなければ、「ディアベリのもっとも良いものだけが表われるようになった」わけではないとんでもない作品を、ディアベリの代表作として数少ないギターの古典時代のレパートリーに加えることになってしまうところだった。幸いにも、私が言うまでもなくブリームの生み出したこの作品の不自然さ作為性を多くの方々が感じ取っておられたようで、この改竄されたソナタイ長調が流布せずにすんだことは幸いである。
ブリームが指摘するようにディアベリの曲が特に傑作という訳でもないのも事実である。今のクラッシクギターで弾く限りオリジナルはどうしても物足りないと感じるのはやむを得ない。確かにディアベリは古今の豊かなレパートリーを抱える現代のギタリストの視点からすれば取り上げるにも足りない古くさく地味な音楽の一つにしかすぎない。
しかし、古楽の世界にいる自分は、オリジナルの意義(またはスタイルや流儀)を尊重するという姿勢で作品に臨もうとする。
ハイドン兄弟の薫陶を受け、音楽の大消費都市ウィーンでベートーベン、シューベルトなどの作曲家と接し彼らの作品を出版し普遍的な音楽の教養情報に接しているディアベリ。また、ギター教師として大衆の求める作品とは何かを名ギタリストであるジュリアーニとの交流を通じて知り尽くしているディアベリ。シュタウファーなどの名工とも交流があり当時のギターを熟知しているディアベリ。
そんな彼のオリジナル作品をオリジナルの19世紀ギターで弾いてみることの意義。そこが古楽愛好家のこだわりである。実際に19世紀ギターで弾いてみるとこの3つのソナタが生き生きと蘇ってくる。
ブリームが見捨てたソナタ第3番の終楽章の何とスリリングなこと。PrestoのMinore部分はバロック(対位法)的Alla breveによる音楽そのものである。
この軽妙さは、リュートの曲をギターで弾く程ではないにせよ、モダンギターでは的確には再現できないであろう。19世紀ギターの特質については竹内太郎氏や色々な方がネットで紹介されておられるが、折に触れ自分なりに感じたことをのべていきたい。
オリジナルの19世紀ギターを弾くようになってディアベリを再認識するようになったのは何よりもブリームのこのディアベリのソナタの演奏・編曲であったは間違いない。「ブリーム編曲(版)ディアベリのソナタ」と銘うつ限りにおいて不朽の功績に違いないのだから…。また何よりもディアベリ復権を待ち望む。独奏曲ばかりでは無くウィーンの華やかな社交界を風靡したセレナードやノクターン、ポプリなどのギターを交えたアンサンブル曲がたくさん眠っている。当時の音楽が好きな我々アマチュアが弾いて聴いて楽しくないはずはない。
19世紀にギターになれ親しんでしまった今、ジュリアーニやソルなど古典時代のギター曲はもはやモダンギターでは弾けなくなってしまった自分に気がついた。
つまり、 とうに右手の爪を切ってしまった藤兵衛であった。
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